ルドルフ・ヘス
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アウクスブルクの飛行学校に通った後、1918年11月1日付けでバイエルン第35戦闘機中隊 (Bayrsche Jagdstaffel 35) の戦闘機パイロットになった[14]。しかし空の英雄になるには時が遅かった。ヘスの初出撃のわずか数日後に大戦は終結し、一機も撃ち落とすことはなかった[14][15]。1918年12月13日に退役した[14]
第一次世界大戦後

戦時中にエジプトの父の会社は同地の事実上の宗主国であるイギリスによって敵性外国人財産として没収されていた[14]。ヘスは1919年2月16日にミュンヘン大学に入学した[# 2]

ミュンヘン大学入学とほぼ同時期に彼は国粋主義団体トゥーレ協会に参加した[17]ミュンヘンのホテル「フィーア・ヤーレスツァイテン」に武器を調達、義勇兵の徴募、サボタージュ部隊の扇動など、ミュンヘンを実効支配したバイエルン・レーテ共和国を打倒するために重要な任務を果たした。1919年5月にフランツ・フォン・エップ率いる義勇軍(フライコール)が「フィーア・ヤーレスツァイテン」に司令部を置いたが、この際に同義勇軍に加わっている[16]。5か月ほど同義勇軍に将校として勤務していた[18]ハウスホーファーとヘス(1920年頃)

この後、ヘスはミュンヘン大学に戻り、経済学歴史政治学地政学を学んだ。このとき地政学の父と呼ばれるカール・ハウスホーファー教授の薫陶をうけた。ハウスホーファーは大戦中には将官として出征し、また説得力に富んだ教授であったため、広く尊敬された人物であった。ヘスも彼に深く心酔し、強い影響を受けた。ハウスホーファーには「ドイツ民族には『生存圏』が不足しており、これは東方にしか見出すことができない」という持論があり、ヘスはこの生存圏構想に強く惹かれていた[19][20]

ヘスは多くの元軍人たちと同様に、共産主義者とユダヤ人がドイツ革命の黒幕(11月の犯罪者)と確信していた。大学在学中も反共主義反ユダヤ主義の政治運動に没頭した。元々ヘスはユダヤ人とまったく関わりがなく、反ユダヤ主義者でも親ユダヤ主義者でもなかったのだが、敗戦によるドイツの混乱が酷過ぎたため、当時横行していた敗戦の責任をユダヤ人に被せる言論に惹かれて一気に反ユダヤ主義者になってしまったという[21][22]

ルール地方スパルタクス団(ドイツ共産党の前身)の反乱が発生すると、その鎮圧に参加するため1920年3月29日に再びエップ義勇軍に入隊した。ヘスは国軍の飛行場を防衛する任に就いていた。4月末には反乱は鎮圧され、ヘスも4月30日にエップ義勇軍を退役した[23]
ナチ党闘争時代の活動

1920年5月、ミュンヘンビヤホール「シュテルンエッカーブロイ」においてアドルフ・ヒトラーの演説を初めて聞き[24]、非常に共感を覚えたヘスは、7月1日にナチ党の創立メンバー(党員番号16)として入党した[25]。学生リーダーとなってヒトラーとも密接な関係を築く。このころのヘスの手紙からはヒトラーを「護民官」と呼んで熱狂する様子がよく伝わってくる。

1923年11月8日夜20時30分から始まったミュンヘン一揆においてはヒトラーに同道して「ビュルガーブロイケラー」へ突入した。ヘスはその夜捕まえたバイエルン州政府閣僚の移送にあたった。さらに翌日午前11時には大学生たちを率いてミュンヘン市役所を襲撃してユダヤ人とドイツ社会民主党党員の市議会議員を拘束し、彼らを人質としてビュルガーブロイケラーへ移送した。その後も人質の監視の任にあたっていた。ヘスは人質に乱暴な取扱いはしなかったという[26]

一揆の失敗を知り、オーストリアザルツブルクに逃亡するが[27]、翌1924年4月2日にヒトラーに判決が下ったことを知るとミュンヘンへ戻って自首した。バイエルンの国民法廷から18か月の城塞禁固刑(ドイツ語版)を言い渡され[28]、ヒトラーと同じランツベルク刑務所に投獄された[28][29]

獄中ではヒトラーと非常に親密な関係を築いた。ハウスホーファー教授が頻繁にランツベルク刑務所のヘスを訪ね、ヒトラー、ヘス、ハウスホーファーの三人で長時間にわたり語り合ったりしていた[30]。ヒトラーの著書『わが闘争』の口述筆記もヘスが務めた。ヘスはただの筆記者ではなく、ヒトラーの著述のアドバイザーでもあった。『我が闘争』の中の「生存圏」や「歴史におけるイギリスの役割」などの項目はヘスの影響が大きい[31][32]

出獄後は一時ミュンヘン大学でハウスホーファーの助手になるが、すぐに辞職。ヒトラーの個人秘書となり、ヒトラーとの密接な関係を続けた。彼はヒトラーのスケジュールを管理し、またヒトラーへの苦情の受付を担当するなどして、ヒトラーを面倒事から解放した。またヒトラーに接近する者の管理を行った。アルフレート・ローゼンベルクは当時のことを「ヒトラーに近づくのは容易ではなかった。いつもその近くにヘスがいたからだ」と語っている[33]。ただし1932年までヘスにはナチ党内で公式の肩書は何もなく、ヒトラーの個人的な秘書にすぎなかった[32]

ヒトラーとヘスは公的な場では「貴方 (Sie)」で呼び合っていたが、私的な場では親密な間柄の二人称「きみ (du)」で呼び合う仲だった[34]。しかしヒトラーはすでにこの頃からヘスにいらつくことがあり、1927年夏にはハインリヒ・ホフマンに対して「ヘスは真面目だが、時々神経に触る」と語っている[35]

1927年12月20日にはヒトラーとハウスホーファー教授を立会人としてイルゼ・プレールと結婚している。結婚式はキリスト教会を嫌って市役所において行った[36][37]

ヘスはヒトラーの秘書活動の合間を縫って党のための宣伝飛行も行っていた。「ドイツ一周飛行」や「ツークシュピッツェ飛行」などの航空イベントに参加した[38]。1931年にはナチ党所有の航空機で社民党の集会に低空飛行をかけて社民党員を蹴散らした。この件で社民党から告発を受けて裁判沙汰となった。普段は真面目でおとなしいが、突然飛行機に乗って極端なことをやる傾向は当時からあったようである[38]

グレゴール・シュトラッサーの除名後の1932年12月、ヒトラーはシュトラッサーの組織全国指導者の職をいくつかに分解し、そのうちの中心的な役割をヘスとロベルト・ライに与えた。


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