1915年4月に兵長に昇進し、陣地防衛での勇戦が認められ、二級鉄十字章を授与された[10]。1915年夏に伍長に昇進した[11]。1916年2月から始まったヴェルダンの戦いに動員され、6月12日に榴弾の破片で両足と背に重傷を負った[12]。退院後の1916年12月に副曹長に昇進するとともにバイエルン第18予備歩兵連隊第10中隊隷下の小隊の小隊長に任じられ、ルーマニア戦線に派遣された[12]。しかし1917年、ルーマニア・フォクシャニでの戦闘で肺に銃弾を受け重傷を負い、ライヒホルツグリューンで長期入院することとなった。1917年8月8日に書留郵便で少尉昇進の辞令を受けた[13]。
退院後の1918年春には志願していた航空隊への移籍が認められた。アウクスブルクの飛行学校に通った後、1918年11月1日付けでバイエルン第35戦闘機中隊 (Bayrsche Jagdstaffel 35) の戦闘機パイロットになった[14]。しかし空の英雄になるには時が遅かった。ヘスの初出撃のわずか数日後に大戦は終結し、一機も撃ち落とすことはなかった[14][15]。1918年12月13日に退役した[14]。 戦時中にエジプトの父の会社は同地の事実上の宗主国であるイギリスによって敵性外国人財産として没収されていた[14]。ヘスは1919年2月16日にミュンヘン大学に入学した[# 2]。 ミュンヘン大学入学とほぼ同時期に彼は国粋主義団体トゥーレ協会に参加した[17]。ミュンヘンのホテル「フィーア・ヤーレスツァイテン」に武器を調達、義勇兵の徴募、サボタージュ部隊の扇動など、ミュンヘンを実効支配したバイエルン・レーテ共和国を打倒するために重要な任務を果たした。1919年5月にフランツ・フォン・エップ率いる義勇軍(フライコール)が「フィーア・ヤーレスツァイテン」に司令部を置いたが、この際に同義勇軍に加わっている[16]。5か月ほど同義勇軍に将校として勤務していた[18]。ハウスホーファーとヘス(1920年頃) この後、ヘスはミュンヘン大学に戻り、経済学、歴史、政治学、地政学を学んだ。このとき地政学の父と呼ばれるカール・ハウスホーファー教授の薫陶をうけた。ハウスホーファーは大戦中には将官として出征し、また説得力に富んだ教授であったため、広く尊敬された人物であった。ヘスも彼に深く心酔し、強い影響を受けた。ハウスホーファーには「ドイツ民族には『生存圏』が不足しており、これは東方にしか見出すことができない」という持論があり、ヘスはこの生存圏構想に強く惹かれていた[19][20]。 ヘスは多くの元軍人たちと同様に、共産主義者とユダヤ人がドイツ革命の黒幕(11月の犯罪者)と確信していた。大学在学中も反共主義と反ユダヤ主義の政治運動に没頭した。元々ヘスはユダヤ人とまったく関わりがなく、反ユダヤ主義者でも親ユダヤ主義者でもなかったのだが、敗戦によるドイツの混乱が酷過ぎたため、当時横行していた敗戦の責任をユダヤ人に被せる言論に惹かれて一気に反ユダヤ主義者になってしまったという[21][22]。 ルール地方でスパルタクス団(ドイツ共産党の前身)の反乱が発生すると、その鎮圧に参加するため1920年3月29日に再びエップ義勇軍に入隊した。ヘスは国軍の飛行場を防衛する任に就いていた。4月末には反乱は鎮圧され、ヘスも4月30日にエップ義勇軍を退役した[23]。 1920年5月、ミュンヘンのビヤホール「シュテルンエッカーブロイ」においてアドルフ・ヒトラーの演説を初めて聞き[24]、非常に共感を覚えたヘスは、7月1日にナチ党の創立メンバー(党員番号16)として入党した[25]。学生リーダーとなってヒトラーとも密接な関係を築く。このころのヘスの手紙からはヒトラーを「護民官」と呼んで熱狂する様子がよく伝わってくる。 1923年11月8日夜20時30分から始まったミュンヘン一揆においてはヒトラーに同道して「ビュルガーブロイケラー」へ突入した。ヘスはその夜捕まえたバイエルン州政府閣僚の移送にあたった。さらに翌日午前11時には大学生たちを率いてミュンヘン市役所を襲撃してユダヤ人とドイツ社会民主党党員の市議会議員を拘束し、彼らを人質としてビュルガーブロイケラーへ移送した。その後も人質の監視の任にあたっていた。ヘスは人質に乱暴な取扱いはしなかったという[26]。 一揆の失敗を知り、オーストリアのザルツブルクに逃亡するが[27]、翌1924年4月2日にヒトラーに判決が下ったことを知るとミュンヘンへ戻って自首した。バイエルンの国民法廷から18か月の城塞禁固刑
第一次世界大戦後
ナチ党闘争時代の活動
獄中ではヒトラーと非常に親密な関係を築いた。ハウスホーファー教授が頻繁にランツベルク刑務所のヘスを訪ね、ヒトラー、ヘス、ハウスホーファーの三人で長時間にわたり語り合ったりしていた[30]。ヒトラーの著書『わが闘争』の口述筆記もヘスが務めた。ヘスはただの筆記者ではなく、ヒトラーの著述のアドバイザーでもあった。『我が闘争』の中の「生存圏」や「歴史におけるイギリスの役割」などの項目はヘスの影響が大きい[31][32]。
出獄後は一時ミュンヘン大学でハウスホーファーの助手になるが、すぐに辞職。ヒトラーの個人秘書となり、ヒトラーとの密接な関係を続けた。彼はヒトラーのスケジュールを管理し、またヒトラーへの苦情の受付を担当するなどして、ヒトラーを面倒事から解放した。