ルソン島
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堺市民会館前にある呂宋助左衛門の銅像。マニラとの貿易で財を成した

ルソンは中国と東南アジア、インドアラブとの中継貿易で栄えた。また一部のルソンの人々はマライ人系商人らを通じイスラム教を取り入れていた。中国の記録には、現在のマニラの一部であるトンド(東都)に首都をおく「呂宋國」の存在が記され[1]、モンゴル帝国との戦いに敗れた南宋の残党がたどり着いて建国したとの言い伝えもある。スペイン征服に前後して日本の商人もルソンと交易し、戦国時代の商人・納屋助左衛門(呂宋助左衛門)はここで貿易商を営むことで巨万の富を得た。1500年代初頭、マラッカを征服したポルトガル人は、中国とマラッカの間にあるとされるこの貿易国家のことを「ルソニア」(Luconia)または「ルソン」(Lucon)と記している。

16世紀の終わり、太平洋を越えてきたスペイン人との最初の接触が起こった。コンキスタドール(征服者)であるマルティン・デ・ゴイティ、フアン・デ・サルセード、そして彼らの指揮官であるミゲル・ロペス・デ・レガスピセブ島に拠点を確保し、1570年から1571年にかけてマニラを占領してフィリピン諸島の領有を宣言した。

以後、ルソン島はメキシコ(ヌエバ・エスパーニャ)の支配下となり、メキシコと中国を中継するガレオン貿易の拠点となった。スペインから赴任する白人支配層は中国の陶磁器やメキシコの銀などの貿易に力を注ぐ一方、内政は元来の現地人首長を間接支配することで済ませていた。植民地統治の大きな部分は、多くの土地を所有しつつ現地人たちを教化するスペイン人の修道会が担っていた。

白人支配層は任期が終わればスペインへ帰るだけだったが、スペイン人やメキシコ人の軍人ら下級白人はフィリピンにとどまり、現地人の首長らの娘と結婚することで地位を確立しようとし、その子であるメスティーソらはフィリピンの現地支配層となっていった。一方、スペイン人到来前から住んでいた中国人らも現地人と結婚して中国系メスティーソとなり、商工業を支配した。ホセ・リサールら独立運動家たち

18世紀には内政が停滞し、イギリスによるマニラ攻撃やガレオン船攻撃などで植民地支配は破綻し始めた。さらに19世紀になりメキシコの独立でガレオン船貿易は途絶した。スペイン人支配者は中南米の独立の結果ますます保守的になっていったが、スペイン本国へメスティーソのエリート層が留学して高い教育に接したり、スペイン本国や中南米から渡って来た人々がフィリピンに自由主義思想や各地の独立運動の情報を伝えたりしたことで、フィリピン人の意識は変わり始めた。メスティーソのうちのエリート層(教育を受けた人々を意味する「イルストラド」illustrados と呼ばれる)は権力を独占するスペイン人支配層に対する不満をつのらせ、一方でスペイン語を解しない生粋の現地人ら農民は地主や修道会に対する反発を深めた。これらがやがてフィリピン革命につながる。

フィリピンの反スペイン独立運動は、米西戦争に伴うアメリカ合衆国の参戦で転機を迎えスペイン人支配者は倒された。しかし、フィリピンを植民地化しようとするアメリカはメスティーソのエリート(イルストラド)を中心とするフィリピン人独立勢力としだいに対立するようになり1899年に米比戦争に発展した。

米比戦争によりフィリピン第一共和国マロロス共和国)は崩壊し、多数の農民兵らがアメリカ軍に殺された。アメリカ陸軍准将J・フランクリン・ベルはニューヨーク・タイムズにこう述べている。「ルソンの現地人の6分の1はこの2年で、デング熱で死ぬか戦争で死んでいる。殺戮による生命の損失だけでも大きかったが、私は誰一人として合法的な戦争の目的のため以外に殺された者はいないと考える。フィリピン人はずるく立ち回り彼ら自身のやり方で戦っているので、他国ならおそらく厳しい基準で見られることを適用する必要がある」[2]

アメリカはフィリピンに多くの役人や教師を送り込み民主主義のショーケースとすべく改革を行った。フィリピン人社会を支配するエリート階級イルストラドは、アメリカの支配に取り込まれ植民地政府の要職に登用された。この層はアメリカ統治時期に財力や土地所有を増やし富を蓄えた。しかし英語による教育の普及や経済の発達でフィリピン人の国民意識は高まり独立の声はやまず、1935年にはアメリカ政府も10年後の独立を約束し、フィリピン・コモンウェルス(独立準備政府)が発足した。日米両軍によるマニラの戦いで、マニラの旧市街イントラムロスは焼け野原となった

1941年末から1945年までの太平洋戦争でルソン島は日本軍の侵略と占領を受けたが(フィリピンの戦い (1941-1942年)およびフィリピン第二共和国)、一方でこの時期にマニラ周辺のタガログ語が支配に使用されフィリピンに広がった。イルストラドのうち第二共和国に参加するなど日本軍に協力する者も多かったが、アメリカで亡命政権に参加する者もおり、アメリカ極東陸軍(ユサッフェ)の残党将兵は引き続き「ユサッフェ」を名乗ってゲリラ組織を作り、ゲリラ戦を展開した。また農民・労働者層はフィリピン共産党の指導下でフクバラハップ(抗日人民軍)を結成し日本軍を苦しめた。

ルソン島はフィリピンの戦いのさなかの1945年、アメリカ軍により奪回されたが(ルソン島の戦い)、戦争で都市などのインフラは徹底的に破壊された。またフクバラハップが戦後も勢力を持ちフィリピン政府やアメリカ軍と戦い続けた。

1946年、フィリピンは独立した。しかしクラーク空軍基地スービック海軍基地などアメリカの軍事基地は残り、フィリピン政府に対し以後もアメリカ政府が影響を持ち続けた。フィリピンは1960年代まではアジアにおいて日本に次ぐ第2位の経済規模を誇ったが、やがてフェルディナンド・マルコス政権後期に縁故主義がはびこると経済が停滞し、韓国や台湾などに大きく水をあけられるようになった。
住民フィリピンの言語と民族の分布
民族

ルソン島に住む民族はマレー系が主で、タガログ人・イロカノ人(英語版)・パンガシナン人(英語版)・パンパンガ人(英語版)・ビコラノ人(英語版)等に分けられる。また山岳部には少数民族(ネグリト)が住む。サンバレス州アエタ人カガヤン州のイバナグ人、コルディリェラ行政地域イゴロット人はその代表的存在である。歴史的に、中国人・日本人・スペイン人・アメリカ人の血を引く者も多い。近年ではフィリピンの中部や南部の諸民族出身者がマニラに住み、インド・中国などからの移民も多くなっている。
言語

主な言語はマレー・ポリネシア語群に属している。国語のフィリピン語もこの中のタガログ語を元にしている。北部のイロコス地方カガヤン・バレー地方にはイロカノ語を話すイロカノ人が住む。中部のパンガシナン州にはパンガシナン語を話すパンガシナン人が、パンパンガ州タルラック州にはパンパンガ語を話すパンパンガ人が住む。マニラ周辺およびその南はタガログ語が話され、さらに南のビコル半島ではビコラノ語が話される。

華人の中には、福建省南部の?南語の方言であるランナン語(?儂話)を話す者もいる。

スペイン語は、植民地時代は、高い教育を受けることのできたフィリピン人エリート(イルストラド)とスペイン人支配者の言語であり、フィリピン革命後のマロロス共和国憲法でも公用語とされた。しかし人口の大半を占める農民達はスペイン語教育を受けなかったため地元の言葉しか話せず、政治にも関わることができなかった。アメリカ統治時代、英語教育が一般の人々にも行われたため、スペイン語の利用は激減した。

英語教育を受けた人も多く、高い教育を受けた人々はビジネスシーンで英語を話す。
宗教

ルソン島の主な宗教はカトリックであるが、アメリカ統治時代以降に広まったプロテスタントフィリピン革命の時代にカトリックから分離したフィリピン独立教会(Philippine Independent Church / Iglesia Filipina Independiente)、20世紀初頭に誕生したキリスト教系の新興宗教イグレシア・ニ・クリスト(Iglesia Ni Cristo)の信者も多い。山岳部を中心に伝統的なアニミズムなども生きている。このほか、フィリピン南西部出身のモロ人や中国移民がマニラに増えたことにより、イスラム教仏教も広がりを見せている。


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