ルシル・ボール
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1951年7月17日、およそ40歳で第一子長女ルーシー・アーナズを出産し[8]、その1年半後、第二子長男デジ・アーナズJr.を出産した[9]。1960年5月4日、離婚。

1989年4月26日、77歳で大動脈解離により亡くなった[10]。当時、仕事上のパートナーでスタンダップ・コメディアンのゲイリー・モートンと再婚しており、27年以上におよぶ結婚生活を送っていた[11]
生い立ち

1911年8月6日、ニューヨーク州ジェームズタウンで父ヘンリー・ダレル・ボール(1887年9月16日 - 1915年2月19日)と母デゼレイ・イヴ・ハント(愛称DeDe ) (1892年9月21日 - 1977年7月20日)との子として生を受ける。出身地についてはモンタナ州ビュートと語ることもある[12]。「ニューヨーク生まれ」よりも「モンタナ生まれ」の方がよりロマンティックだと彼女が語ったと複数の雑誌で報じられ、自分が「西部の子」であると作り上げたとされる[13]。彼女が3歳の頃、モンタナ州アナコンダに転居し、その直後父が亡くなり、その後ミシガン州Wyandotte に転居した[要出典]。彼女の一家はバプテスト教会の信者で、スコットランドフランスアイルランドイングランドの血を引いている[14][15]。系図によるとマサチューセッツ湾植民地の初期の入植者エドマンド・ライスなど植民時代初期の入植者の子孫とみられる[16][17]

Bell Telephone Company の電話保線工員であった父は転勤が多く、彼女が生まれてからの3年間でジェームズタウンからアナコンダ、その後ニュージャージー州トレントンに引っ越した[18]。母が第二子フレッド・ボールを妊娠中、父は腸チフスにかかり、1915年2月に亡くなった[19]。その日のことは、鳥が家の中に入ってきてしまったこと以外は写真でしか覚えていない。それ以降彼女は鳥恐怖症となった[20]

父親の死後、彼女と弟のフレッド・ヘンリー・ボール(1915年7月17日 - 2007年2月5日)は母とジェームズタウン西の夏季向けリゾート地であるChautauqua Lake のあるニューヨーク州セレロンに住む祖父母に育てられた[21]。彼女の幼少期に多大な影響を与えたのは当時全米で屈指の行楽地であったセレロン・パークであった。明かり付きの湖に向かう滑り台のような遊歩道、ピア・ボールルーム、ローラーコースター、野外音楽堂、ヴォードヴィルのステージ、コンサート、演劇の定期公演などが行なわれていた[13]。祖父のフレッド・ハントは演劇がとても好きであった。彼は時々家族をヴォードヴィルを観に連れて行ったりし、彼女を学校演劇などにも参加させた[要出典]。父の死から4年後、母は再婚した。継父のエドワード・ピーターソンは母と職探しに他の都市へ出かけ、彼女は継父のピューリタンスウェーデン人である両親の世話をしなくてはならなかった。彼らはバスルームの1枚を除いて全ての鏡を排除した。彼女が成長し身なりに気を遣うようになると、厳しく罰せられた[22]。この頃のことは彼女に大きな影響を与え、彼女自身は7年か8年続いたと語っているが、実際はそれより短かったとみられる[23]。エドワード・ピーターソンはShriner であった。彼の組織が女性による歌や踊りが必要となると、12歳の彼女はオーディションに駆りだされた[24]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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