ルシル・ボール
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2人は30年に亘る友人で、スチュワートはボールに13歳年下のボルシチベルトのスタンダップ・コメディアンのゲイリー・モートンを紹介し、ボールとモートンは再婚することとなった[11]。ボールによるとモートンは多忙のため『アイ・ラブ・ルーシー』を観たことがなかった[56]。ボールはすぐにモートンを自身のプロダクション会社に入社させてテレビ界のビジネスを教え、最終的にモートンはプロデューサーとなった。またモートンはボールが出演する様々な連続ドラマに時々出演することもあった[57]
後年

1960年、ブロードウェイのミュージカル『Wildcat 』に出演していたが、ボールの体調不良により続行が不可能となったため予定より早く閉幕した[58]。このミュージカルで使用された楽曲『Hey, Look Me Over 』は有名になり、『エド・サリヴァン・ショー』でポーラ・スチュワートと共に演奏した。他に『Yours, Mine and Ours 』(1968年)、ミュージカル映画『Mame 』(1974年)などの映画の他、CBSのヴァンスおよびゲイル・ゴードン共演の『ルーシー・ショー』(1962年?1968年)、ゴードンの他に実の子ルーシーとデジ・ジュニアも共演した『陽気なルーシー』(1968年?1974年)などロングランの人気シットコムに出演した。1974年、ディック・キャヴェットの番組に出演し、自身の人生およびアーナズとの生活について語った。他の俳優および女優と同様のアーナズへの愛を明らかにした。

またこの時のインタビューで、これまでの人生で一番変わった出来事は歯医者で詰め物をした後に起こったと語った。頭の中でラジオが聞こえるようになったのである。スタジオから帰宅する途中、ある地域を越えたらモールス符号のようなものが聞こえ、次第に強くなっていった。翌朝、専門家に調査を依頼したところ、日本製の送信機が埋め込まれており、日本と送受信していたのである[59][60]

映画『影なき狙撃者』でフランク・シナトラによりアイスリン夫人に配役を考えられていた。しかし監督でプロデューサーのジョン・フランケンハイマーは『All Fall Down 』で母親役を演じたアンジェラ・ランズベリーを推した[61]

1980年代中期、ボールはテレビでの復帰を望んでいた。1982年、『Three's Company 』の回想シーンで『アイ・ラブ・ルーシー』の最初の5シーズンから記憶に残るシーンを要約したビデオを流し、『アイ・ラブ・ルーシー』への愛を語った[62]。1985年、テレビ映画『Stone Pillow 』で年配のホームレスの女性を演じたが賛否両論であった。1986年、シットコム『Life with Lucy 』で再度ルーシー役を演じ、長年の相手役であるゲイル・ゴードンと共演し、ボールはゲイリー・モートンおよび多作のプロデューサーで元俳優のアーロン・スペリングと共同プロデュースを行なったが、ABCにより2ヶ月で打ち切られた[63]。1988年5月、ボールは軽度の心筋梗塞により入院した[64]。ボールが最後に公の場に出たのは、亡くなる1ヶ月前、第61回アカデミー賞でボブ・ホープと共にプレゼンターとして登場した際、スタンディング・オヴェイションで迎えられた。

1989年4月18日、ボールはビバリーヒルズの自宅で胸の痛みを訴えた。救急車を呼び、Cedars-Sinai Medical Center の救急センターに運ばれた。大動脈解離と診断され、バイクの事故で亡くなった27歳の男性の大動脈を移植するため8時間近く手術が行なわれた。手術は成功し、とても早く回復し始め、少しの手伝いを受けながら部屋の周りを歩けるまでになった。ハリウッドから回復を願う声が次々と寄せられ、病院向かいのハードロックカフェでは「Hard Rock Loves Lucy (ハード・ロックはルーシーを愛しています)」という看板が立てられた。4月26日の夜明け直後、ボールは背中の酷い痛みで目が覚め、すぐに意識を失った[65]。手を尽くしたが太平洋標準時5時47分に77歳で亡くなった。医師によると前週の手術とは関係のない腹部の大動脈破裂により亡くなった[66][67]


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