父親の死後、彼女と弟のフレッド・ヘンリー・ボール(1915年7月17日 - 2007年2月5日)は母とジェームズタウン西の夏季向けリゾート地であるChautauqua Lake のあるニューヨーク州セレロンに住む祖父母に育てられた[21]。彼女の幼少期に多大な影響を与えたのは当時全米で屈指の行楽地であったセレロン・パークであった。明かり付きの湖に向かう滑り台のような遊歩道、ピア・ボールルーム、ローラーコースター、野外音楽堂、ヴォードヴィルのステージ、コンサート、演劇の定期公演などが行なわれていた[13]。祖父のフレッド・ハントは演劇がとても好きであった。彼は時々家族をヴォードヴィルを観に連れて行ったりし、彼女を学校演劇などにも参加させた[要出典]。父の死から4年後、母は再婚した。継父のエドワード・ピーターソンは母と職探しに他の都市へ出かけ、彼女は継父のピューリタンのスウェーデン人である両親の世話をしなくてはならなかった。彼らはバスルームの1枚を除いて全ての鏡を排除した。彼女が成長し身なりに気を遣うようになると、厳しく罰せられた[22]。この頃のことは彼女に大きな影響を与え、彼女自身は7年か8年続いたと語っているが、実際はそれより短かったとみられる[23]。エドワード・ピーターソンはShriner であった。彼の組織が女性による歌や踊りが必要となると、12歳の彼女はオーディションに駆りだされた[24]。彼女が舞台に出演するようになると、これこそが自分が賞賛される方法であると確信するようになった。彼女は若いうちから世に出たいと考えていた[25]。1927年、祖父が監視していたにもかかわらず、庭で近所の少年が不注意の何者かに撃たれて麻痺が残ったとして裁判により家屋と家具を没収されてしまった。その後ジェイムズタウンの小さなアパートに転居した[26]。 1925年、ボールが14歳の頃、地元の23歳のチンピラであるジョニー・デヴィータと交際を始めた。母はこの交際を快く思っておらず、数週間で別れるだろうと思っていたがなかなか別れさせることができずにいた。約1年後、母は娘のショー・ビジネス界への熱望をもとに別れさせようとした。家計が困窮していたにもかかわらず、ニューヨークにあるジョン・ミュレイ・アンダーソン・スクールの演劇科に入学させた[27][28]。ベティ・デイヴィスが同級生であった。ボールは後に「ここで私が学んだのは怖がらせる方法だけだった」と語った[29]。 教師達が間違っていることを証明するため、1928年にニューヨークに戻ってきた。またハッティ・カーネギーのファッション・モデルを務めることとなった[30]が、軌道に乗っていた頃にリウマチ熱、関節リウマチ、その他原因不明の病により2年間休業せねばならなかった[31]。1932年に再び女優を目指すためニューヨークに戻り、生活のためにChesterfield ゴールドウィン・ガールズに所属し、『羅馬太平記』(1933年)にクレジット無しの端役で出演後、映画女優に専念するためハリウッドに転居した。RKOとの契約で三ばか大将の2リール短編コメディ『Three Little Pigskins
10代の頃および初期の経歴
ハリウッド
1939年の『Five Came Back 』など多くのB級映画で主演していたため、フェイ・レイの後を継いで「B級映画の女王」と呼ばれた。多くの女優の卵同様、ボールも名を広めることと生活のためにラジオに出演した。1937年、『フィル・ベイカー・ショー』にレギュラー出演した。1938年の放送終了時、後に『オズの魔法使』でブリキ男を演じるジャック・ヘイリーと共に『The Wonder Show 』に出演した。以降50年に亘る仕事仲間となる、この番組でアナウンサーを務めていたゲイル・ゴードンと出会った。1939年4月7日、『The Wonder Show 』は1シーズンで終了した[37]。MGMのプロデューサーのアーサー・フリードはアン・サザーンのためにブロードウェイのヒット・ミュージカル『デュバリイは貴婦人』(1943年)の映画化権を購入したが、サザーンはこの役を受けず、実生活でサザーンの親友であったボールが演じることとなった。1946年、『Lover Come Back 』に主演し、1948年、『The Fuller Brush Man 』にクレジット無しのサリー・エリオット役で出演した。 1940年、ボールはリチャード・ロジャースとロレンツ・ハートの舞台の映画化『Too Many Girls
デジ・アーナズ
1944年、アーナズと最初の離婚を申し立てたが、すぐ和解して取り下げた[38]。