ルシル・ボール
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母が第二子フレッド・ボールを妊娠中、父は腸チフスにかかり、1915年2月に亡くなった[19]。その日のことは、鳥が家の中に入ってきてしまったこと以外は写真でしか覚えていない。それ以降彼女は鳥恐怖症となった[20]

父親の死後、彼女と弟のフレッド・ヘンリー・ボール(1915年7月17日 - 2007年2月5日)は母とジェームズタウン西の夏季向けリゾート地であるChautauqua Lake のあるニューヨーク州セレロンに住む祖父母に育てられた[21]。彼女の幼少期に多大な影響を与えたのは当時全米で屈指の行楽地であったセレロン・パークであった。明かり付きの湖に向かう滑り台のような遊歩道、ピア・ボールルーム、ローラーコースター、野外音楽堂、ヴォードヴィルのステージ、コンサート、演劇の定期公演などが行なわれていた[13]。祖父のフレッド・ハントは演劇がとても好きであった。彼は時々家族をヴォードヴィルを観に連れて行ったりし、彼女を学校演劇などにも参加させた[要出典]。父の死から4年後、母は再婚した。継父のエドワード・ピーターソンは母と職探しに他の都市へ出かけ、彼女は継父のピューリタンスウェーデン人である両親の世話をしなくてはならなかった。彼らはバスルームの1枚を除いて全ての鏡を排除した。彼女が成長し身なりに気を遣うようになると、厳しく罰せられた[22]。この頃のことは彼女に大きな影響を与え、彼女自身は7年か8年続いたと語っているが、実際はそれより短かったとみられる[23]。エドワード・ピーターソンはShriner であった。彼の組織が女性による歌や踊りが必要となると、12歳の彼女はオーディションに駆りだされた[24]。彼女が舞台に出演するようになると、これこそが自分が賞賛される方法であると確信するようになった。彼女は若いうちから世に出たいと考えていた[25]。1927年、祖父が監視していたにもかかわらず、庭で近所の少年が不注意の何者かに撃たれて麻痺が残ったとして裁判により家屋と家具を没収されてしまった。その後ジェイムズタウンの小さなアパートに転居した[26]
10代の頃および初期の経歴

1925年、ボールが14歳の頃、地元の23歳のチンピラであるジョニー・デヴィータと交際を始めた。母はこの交際を快く思っておらず、数週間で別れるだろうと思っていたがなかなか別れさせることができずにいた。約1年後、母は娘のショー・ビジネス界への熱望をもとに別れさせようとした。家計が困窮していたにもかかわらず、ニューヨークにあるジョン・ミュレイ・アンダーソン・スクールの演劇科に入学させた[27][28]ベティ・デイヴィスが同級生であった。ボールは後に「ここで私が学んだのは怖がらせる方法だけだった」と語った[29]

教師達が間違っていることを証明するため、1928年にニューヨークに戻ってきた。またハッティ・カーネギーのファッション・モデルを務めることとなった[30]が、軌道に乗っていた頃にリウマチ熱関節リウマチ、その他原因不明の病により2年間休業せねばならなかった[31]。1932年に再び女優を目指すためニューヨークに戻り、生活のためにChesterfield の煙草売りをしたり再びカーネギーのもとで働いた[32]。「ダイアン・ベルモント」という芸名を使い、ブロードウェイでコーラスの仕事を得たが、長くは続かなかった。『Vanities 』の興行主アール・キャロル、『Rio Rita 』ツアー公演のプロデューサーのフローレンツ・ジーグフェルド・ジュニア、『Stepping Stones 』のシュバート兄弟のプロダクションから雇われてすぐ解雇された[要出典]。
ハリウッド

ゴールドウィン・ガールズに所属し、『羅馬太平記』(1933年)にクレジット無しの端役で出演後、映画女優に専念するためハリウッドに転居した。RKOとの契約で三ばか大将の2リール短編コメディ『Three Little Pigskins 』(1934年)、マルクス兄弟の映画『ルーム・サーヴィス』(1938年)を含む多数の映画に端役で出演した。またフレッド・アステアおよびジンジャー・ロジャースが主演した『ロバータ』I(1935年)でモデルの1人、『トップ・ハット』(1935年)で花嫁介添人、『艦隊を追って』冒頭部の脇役など数々のアステア=ロジャース映画に出演している[33]。ジンジャー・ロジャースはボールの母方の遠い親戚である。キャスリン・ヘプバーンとロジャースがダブル主演の『ステージ・ドア』(1937年)ではロジャースもボールも共に女優を目指す役を演じた。1936年、ブロードウェイで、ハリウッドのデュプレックス・アパートメントを舞台にしたバートレット・コーマックのコメディ『Hey Diddle Diddle 』で役を得た。1937年1月21日、ニュージャージー州プリンストンでプレミア公演が上演され、「神経症の演出家、困惑した重役、上に上がろうとする少女達の邪魔をするスター達によって作り出された3名のルームメイトのうちの1人」であるジュリー・タッカー役を演じた[34]。当初は好評であったが、主演のコンウェイ・タールは健康問題を抱えていた。コーマックは彼を降板させたかったが、プロデューサーのアン・ニコルズは役柄に問題があるとして、脚本を作り直す必要があると主張した。2人の意見の相違は解決に至らなかった。ブロードウェイにあるヴァンダービルト劇場で開幕が決まっていたが、ティールが突然危篤となったためワシントンD.C.での公演は1週間で閉幕した[35]。1940年代、ボールはメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)と契約したが、ここでの作品からスターダムに上ることはなかった[36]

1939年の『Five Came Back 』など多くのB級映画で主演していたため、フェイ・レイの後を継いで「B級映画の女王」と呼ばれた。多くの女優の卵同様、ボールも名を広めることと生活のためにラジオに出演した。1937年、『フィル・ベイカー・ショー』にレギュラー出演した。1938年の放送終了時、後に『オズの魔法使』でブリキ男を演じるジャック・ヘイリーと共に『The Wonder Show 』に出演した。以降50年に亘る仕事仲間となる、この番組でアナウンサーを務めていたゲイル・ゴードンと出会った。1939年4月7日、『The Wonder Show 』は1シーズンで終了した[37]。MGMのプロデューサーのアーサー・フリードアン・サザーンのためにブロードウェイのヒット・ミュージカル『デュバリイは貴婦人』(1943年)の映画化権を購入したが、サザーンはこの役を受けず、実生活でサザーンの親友であったボールが演じることとなった。1946年、『Lover Come Back 』に主演し、1948年、『The Fuller Brush Man 』にクレジット無しのサリー・エリオット役で出演した。
デジ・アーナズ

1940年、ボールはリチャード・ロジャースロレンツ・ハートの舞台の映画化『Too Many Girls 』の撮影中、キューバ生まれのバンドリーダーであるデジ・アーナズと出会った。出会って2日目に親密になり、同年駆け落ちした。1942年、アーナズはアメリカ陸軍に召集されたが、膝の怪我により限られた職務しかできなかった[要出典]。その後アーナズはロサンゼルスに住み、太平洋から帰還し、負傷したGIのために米軍慰問団(USO)のショーを組織および上演した。同年ボールは『The Big Street 』で体が麻痺しているナイトクラブの歌手を演じ、ヘンリー・フォンダは彼女に憧れるウエイターを演じた。翌年ボールは『デュバリイは貴婦人』に出演し、ブルネットから燃えるような赤い髪に染め、これが彼女のトレードマークとなった。

1944年、アーナズと最初の離婚を申し立てたが、すぐ和解して取り下げた[38]


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