ルシタニア_(客船)
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タグボートに囲まれながら出港するルシタニア

1907年9月7日、ルシタニアは処女航海でリヴァプールを出発した。指揮を執ったのはジェームズ・ワット船長で、ニューヨークに着いたのは9月13日だった。その後同年11月に姉妹船モーリタニアが就航し、2隻で航海を行っていた。ルシタニアは合計すると、客船として運航された8年間にリヴァプール - ニューヨーク間を202回往復した。

1907年10月、ルシタニアは客船カイザー・ヴィルヘルム2世から東回り航路のブルーリボン賞を奪った。これにより、それまで10年間ドイツが独占していたブルーリボン賞が再びイギリスに渡ることとなった。ルシタニアの記録は西回り航路で23.99 ノット (44.4 km/h) 、東回り航路で23.61ノット (43.7 km/h) であった。

姉妹船モーリタニアが運航されてからは、ブルーリボン賞はこの両姉妹船が独占することとなった。ルシタニアの最速記録は1909年の西回り航路25.85ノット(47.9 km/h)であったが、同年9月、モーリタニアに敗れた。
ハドソン・フルトン記念祭1908年ニューヨーク54番埠頭についたルシタニア試験運用において蒸気機関を使用するルシタニアライトフライヤー号とルシタニア号、右端に自由の女神が見える。

ルシタニアなどの船舶が1909年9月から10月初めにかけてニューヨーク市で行われたハドソン・フルトン記念祭に参加した。これはヘンリー・ハドソンが彼の名が付けられた川を旅行したことの300周年とロバート・フルトンの蒸気船「クラーモント」の100周年の祝賀である。記念祭は当時存在した様々な輸送手段の展示でもあり、ルシタニアは蒸気船技術の最新の進歩を表していた。旅行の新しい手段のひとつは航空機であった。ウィルバー・ライトライトフライヤー号ガバナーズ島 (Governors Island) に運び、航空機というものを見たことがなかった数百万人のニューヨーク市民の前で飛行の実演を始めた。ライトの飛行はルシタニアの真上でも行われ、その時のルシタニアの興味深い写真が少し残っている。
戦争時の運用ルシタニアの広告と並んで掲載された警告文

当初、イギリス政府はルシタニアを武装商船として徴用することを前提として資金援助をおこなった。実際に1913年機銃弾薬が乗客に秘密裏に運び込まれ、船首に設置されテストされた。

第一次世界大戦が始まると、イギリス海軍本部はルシタニアを仮装巡洋艦として徴用することを検討したが、ルシタニアの艦の特性から石炭の消費が大きいこと、その巨体から攻撃の標的にされやすいこと、また、標的となった際に乗務員が危険にさらされることから、仮装巡洋艦には不適当であると判断し、代わりに小規模の貨客船を使用するとした。

以上の理由から、イギリスは大型の客船を徴用しない・徴用する場合には輸送船病院船に回す、という方針を打ち出した。姉妹船モーリタニアは輸送船として徴用されたが、ルシタニアはキュナード・ラインによってアメリカ合衆国 - イギリスを結ぶ豪華客船として運航され続けた。ただ経済的理由から、ルシタニアの航海は月1回とされ、第4ボイラーを閉鎖して速度を21 ノット (39 km/h) 程度に落として運航された。しかしそれでも当時のUボートの速力10 ノット (18.5 km/h) より高速であった。

1915年2月4日、ドイツ帝国はイギリスの周辺海域に封鎖海域を設定し、2月18日周囲を通過する船舶は警告無しで撃沈するという「無制限潜水艦作戦」を実行した。しかし、当時は完全な「無制限」ではなく、厳密な臨検手続きの上で戦時禁制品の搭載があれば、乗員の退避後処分 (撃沈若しくは拿捕) する規定になっていた。ただしこの規定は、対象が艦隊行動中であったり、軍艦の護衛などの戦争行為を行っていれば臨検手続きを省いて撃沈することができるというものであった。

1915年3月6日、イギリス海軍本部は潜水艦を避けるため、駆逐艦が不足しているにもかかわらず、ヘンリー・オリバー提督によって駆逐艦ルイス (HMS Louis) とレーブロック (HMS Laverock) を護衛につけ、さらにQシップであるライオンズ (HMS Lyons) を送り込んだ。しかしルシタニアの船長ダニエル・ダウ (Daniel Dow) は、見慣れない軍艦が追ってくるのを見て、ドイツ海軍の偽装による接近である可能性を考慮し、これらの護衛を避けるようにしてリヴァプールに到着した[6]

1915年4月17日、ルシタニアは再びリヴァプールを出港した。この航海はルシタニアの201回目の航海となるものであり、4月24日にニューヨークに到着した。



最後の航海、沈没
最後の出港

1915年5月1日、ルシタニアはニューヨーク港54番埠頭から出港した。それ以前の4月22日、ドイツ大使館は、新聞に以下のような警告文を掲載していた[7]

原文
NOTICE!

TRAVELLERS intending to embark on the Atlantic voyage are reminded that a state of war exists between Germany and her allies and Great Britain and her allies; that the zone of war includes the waters adjacent to the British Isles; that, in accordance with formal notice given by the Imperial German Government, vessels flying the flag of Great Britain, or any of her allies, are liable to destruction in those waters and that travellers sailing in the war zone on the ships of Great Britain or her allies do so at their own risk.IMPERIAL GERMAN EMBASSY,
Washington, D.C. April 22, 1915

日本語訳
注意!

大西洋の航海に乗り出される渡航者の皆様にご注意申し上げます。一、ドイツ帝国とその同盟国、イギリスとその同盟国の間に戦争状態が存在すること。一、戦闘海域にはブリテン島の周辺海域も含むこと。一、ドイツ帝国政府からの公式通達に従い、イギリスとそのあらゆる同盟国の国旗を掲げた大型船はそれらの海域において攻撃対象となること。一、イギリスとその同盟国の船に乗って戦闘海域に向かう渡航者は自らのリスク負担によってこれを行なうこと。ドイツ帝国大使館,
ワシントンD.C. 1915年4月22日

以上の警告文は、被害を抑えるために、ルシタニアの広告と並んで掲載された。

この警告文は、乗客、乗務員に大きな衝撃を与え、58歳の経験豊富な船長ウィリアム”ボーラー・ビル”ターナーは、乗客を落ち着かせるために、ルシタニアがいかに高速であるかを説明し、Uボートに追いつかれて攻撃される心配はないと話した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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