ルクセンブルク
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総計(2020年62万6000[1]人(164位
人口密度241.7[1]人/km2

GDP(自国通貨表示)
合計(2020年)641億4300万[2]ユーロ(€)

GDP(MER
合計(2020年)732億500万[2]ドル(68位
1人あたり116,921.110[2]ドル

GDP(PPP
合計(2020年)738億7000万[2]ドル(102位
1人あたり117,983.511[2]ドル

建国
フランス帝国より1815年6月9日
ベルギーに編入1830年10月16日
オランダより独立1839年4月19日
オランダと同君連合1867年5月11日
オランダとの同君連合解消1890年11月23日

通貨ユーロ(€)(EUR[注釈 1][注釈 2]
時間帯UTC+1 (DST:+2)
ISO 3166-1LU / LUX
ccTLD.lu
国際電話番号352
^ a b “ ⇒UNdata”. 国連. 2021年11月6日閲覧。
^ a b c d e IMF Data and Statistics 2021年11月6日閲覧

ルクセンブルク大公国(ルクセンブルクたいこうこく、: Grand-Duche de Luxembourg、: Grosherzogtum Luxemburg、ルクセンブルク語: Groussherzogtum Letzebuerg)、通称ルクセンブルクは、西ヨーロッパに位置する立憲君主制国家である[1]議院内閣制大公国。首都はルクセンブルク市

南はフランス、西と北はベルギー、東はドイツに隣接している。また、ベルギー、オランダの2か国とあわせてベネルクスとも呼ばれる。
国名

正式名称は以下のとおりである。

フランス語: Grand-Duche de Luxembourg(グラン=デュシェ・ドゥ・リュクサンブール)

ドイツ語: Grosherzogtum Luxemburg(グロースヘアツォークトゥム・ルクセンブルク)

ルクセンブルク語: Groussherzogtum Letzebuerg(グロウスヘルツォークトゥム・レツェブエシ)

英語: Grand Duchy of Luxembourg(グランド・ダチィ・オヴ・ラクセンバーグ)通称・形容詞ともLuxembourg、国民はLuxembourger。

日本語: 一般的な表記はルクセンブルク大公国、通称ルクセンブルク。外務省もこの表記を用いている。これはドイツ語読みに由来するものである。ルクセンブルグと表記されることもあるが[2]、ドイツ語規則に従えばルクセンブルクの方が近い。フランス語読みのリュクサンブールと表記されることもある。漢字表記は盧森堡。

歴史詳細は「ルクセンブルクの歴史」を参照

かつてのルクセンブルクは、今よりも広大な面積を有していた。1650年以降、ルクセンブルクは3度分割された。最初の分割は、1659年のピレネー条約で行われた。この条約により、ルクセンブルクの南部がフランスに占領された。2回目の分割は1815年のウィーン会議で行われた。ここでは、プロイセンのライン州が北東に大きな面積を、東に小さな面積を、オランダが北に小さな面積を持つことになった。そして最後にフランスが南西の小領域を獲得した。第三次分割は1839年に行われた。ここでは、ベルギーがルクセンブルク西部の3分の2を獲得している。ルクセンブルクの領域の変遷(1659年 - 1839年

963年アルデンヌ家ジーゲフロイト(Sigefroid)伯爵が、今の首都の領土に城を築いたことに始まる。その当時、砦を“lucilinburhuc”(小さな城)と呼んでおり、それが変化してLuxemburgとなった。1060年ごろ、アルデンヌ家の分家であるルクセンブルク家に伯爵位が与えられた。14世紀から15世紀にはルクセンブルク家から神聖ローマ皇帝ボヘミア王を出し、1354年にルクセンブルク家の皇帝カール4世によって伯領から公領へ昇格された。しかしルクセンブルク家はカール4世の孫の代で断絶し、ルクセンブルク公領は抵当に入れられた後、1461年ブルゴーニュ公国に併合された。その後、ネーデルラント一帯はハプスブルク家領となり、ルクセンブルクはハプスブルク領ネーデルラントの一州としてスペインオーストリアの支配を受けた。

フランス革命期にフランスの支配を受けた後、1815年ウィーン会議の結果、ドイツ連邦に加盟しながらもオランダ国王を大公とするルクセンブルク大公国となった。1830年ベルギー独立革命の際にはベルギーと行動を共にし、首都ルクセンブルクを除いて、その統治下へと置かれた。1831年、ロンドン会議によって領土の西半分(現在のリュクサンブール州)をベルギー、残りの領土をオランダ国王の統治下へと帰属することが決められた(3度目の分割)。この割譲が実現されたのは、1839年になってからである。1867年にはロンドン条約によってプロイセン王国とフランスの緩衝国とするため永世中立国となった。1890年、元ナッサウ公アドルフがルクセンブルク大公となり、オランダとの同君連合を解消した。

20世紀初頭から王家が積極的に外資を誘致、労使関係が良好となった。第一次世界大戦第二次世界大戦においては、ドイツ国の占領下に置かれた。後者においては、ベルギー国立銀行に預託していた資産をヴィシー政権におさえられドイツに奪われた。第二次世界大戦後の1948年ベネルクス間で関税同盟を結成。1949年にはNATOに加盟し、82年間続いた永世中立を放棄した。1957年欧州経済共同体1967年欧州連合1999年ユーロ圏へといずれも原加盟国として参加している。2001年クリアストリーム事件が起きた。
政治詳細は「ルクセンブルクの政治(英語版)」を参照

立憲君主制国家元首ナッサウ=ヴァイルブルク家世襲するルクセンブルク大公。2022年現在、世界で唯一の大公国である[3]

議会代議院による一院制。全60議席、任期5年。議員は、直接選挙で選出される。また、議会に対して助言をする国務院(コンセイユ・デタ)がある。メンバーは全21名で、首相の推薦に基づき、大公が任命する。「ルクセンブルク憲法(英語版)」も参照

新自由主義的な経済政策を志向しているが、伝統的に労使関係が良好でストライキは少ない。また企業への税負担が極めて低く抑えられていることから、外国資本による大規模な投資を呼び込むことに成功してきた。
国際関係・外交詳細は「ルクセンブルクの国際関係(英語版)」を参照

ルクセンブルクは周辺の国々に翻弄されてきた歴史を持つ。オランダとの同君連合を終え、独立後永世中立国となると、ドイツフランスの緩衝地帯となる。しかし第一次世界大戦などでドイツに攻めこまれた。戦後は中立を破棄しNATOに加盟した。.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この節の加筆が望まれています。

日本との関係詳細は「日本とルクセンブルクの関係」を参照
駐日ルクセンブルク大使館詳細は「駐日ルクセンブルク大使館」を参照

住所:東京都千代田区四番町8-9

アクセス:中央・総武線/東京メトロ南北線/都営地下鉄新宿線市ケ谷駅2番出口、もしくは東京メトロ有楽町線麹町駅6番出口


ルクセンブルク大使館は麹町駅6番出口

ルクセンブルク大使館が入居する建物

ルクセンブルク大使館は建物F1

ルクセンブルク大使館の国章

駐ルクセンブルク日本大使館

住所:62,Avenue de la Faiencerie, L-1510 Luxembourg

アクセス:市バス8番,30番「Henri VII」「Ermesinde」下車 徒歩1分/トラム「Faiencerie」下車 徒歩3分

世界の主要国との関係

2018年欧州委員会によるルクセンブルク人が他の主要国及び欧州連合に対する見解に関する調査[4]
国・地域肯定否定どちらでもない肯定-否定
 ロシア19%70%11-51
 中国24%64%12-40
 アメリカ28%65%7-37
 イギリス46%45%91
 日本63%24%1339
 フランス70%25%545
 ドイツ81%15%466
 欧州連合89%7%482

日本では想像しにくいが、2018年の欧州委員会の調査によると、欧州連合(EU)の人々の対米観は否定的な意見が肯定的な意見を上回っている。ルクセンブルクの対米肯定的見解も28%にとどまり、否定的見解の65%を下回っている。


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