ルクセンブルク大公国(ルクセンブルクたいこうこく、仏: Grand-Duche de Luxembourg、独: Grosherzogtum Luxemburg、ルクセンブルク語: Groussherzogtum Letzebuerg)、通称ルクセンブルクは、西ヨーロッパに位置する立憲君主制国家である[1]。議院内閣制の大公国。首都はルクセンブルク市。
南はフランス、西と北はベルギー、東はドイツに隣接している。また、ベルギー、オランダの2か国とあわせてベネルクスとも呼ばれる。 正式名称は以下のとおりである。 かつてのルクセンブルクは、今よりも広大な面積を有していた。1650年以降、ルクセンブルクは3度分割された。最初の分割は、1659年のピレネー条約で行われた。この条約により、ルクセンブルクの南部がフランスに占領された。2回目の分割は1815年のウィーン会議で行われた。ここでは、プロイセンのライン州が北東に大きな面積を、東に小さな面積を、オランダが北に小さな面積を持つことになった。そして最後にフランスが南西の小領域を獲得した。第三次分割は1839年に行われた。ここでは、ベルギーがルクセンブルク西部の3分の2を獲得している。ルクセンブルクの領域の変遷(1659年 - 1839年) 963年、アルデンヌ家のジーゲフロイト(Sigefroid)伯爵が、今の首都の領土に城を築いたことに始まる。その当時、砦を“lucilinburhuc”(小さな城)と呼んでおり、それが変化してLuxemburgとなった。1060年ごろ、アルデンヌ家の分家であるルクセンブルク家に伯爵位が与えられた。14世紀から15世紀にはルクセンブルク家から神聖ローマ皇帝やボヘミア王を出し、1354年にルクセンブルク家の皇帝カール4世によって伯領から公領へ昇格された。しかしルクセンブルク家はカール4世の孫の代で断絶し、ルクセンブルク公領は抵当に入れられた後、1461年にブルゴーニュ公国に併合された。その後、ネーデルラント一帯はハプスブルク家領となり、ルクセンブルクはハプスブルク領ネーデルラントの一州としてスペインやオーストリアの支配を受けた。 フランス革命期にフランスの支配を受けた後、1815年にウィーン会議の結果、ドイツ連邦に加盟しながらもオランダ国王を大公とするルクセンブルク大公国となった。1830年のベルギー独立革命の際にはベルギーと行動を共にし、首都ルクセンブルクを除いて、その統治下へと置かれた。1831年、ロンドン会議によって領土の西半分(現在のリュクサンブール州)をベルギー、残りの領土をオランダ国王の統治下へと帰属することが決められた(3度目の分割)。この割譲が実現されたのは、1839年になってからである。1867年にはロンドン条約によってプロイセン王国とフランスの緩衝国とするため永世中立国となった。1890年、元ナッサウ公のアドルフがルクセンブルク大公となり、オランダとの同君連合を解消した。 20世紀初頭から王家が積極的に外資を誘致、労使関係が良好となった。第一次世界大戦と第二次世界大戦においては、ドイツ国の占領下に置かれた。後者においては、ベルギー国立銀行に預託していた資産をヴィシー政権におさえられドイツに奪われた。第二次世界大戦後の1948年、ベネルクス間で関税同盟を結成。1949年にはNATOに加盟し、82年間続いた永世中立を放棄した。1957年に欧州経済共同体、1967年に欧州連合、1999年にユーロ圏へといずれも原加盟国として参加している。2001年、クリアストリーム事件が起きた。
国名
フランス語: Grand-Duche de Luxembourg(グラン=デュシェ・ドゥ・リュクサンブール)
ドイツ語: Grosherzogtum Luxemburg(グロースヘアツォークトゥム・ルクセンブルク)
ルクセンブルク語: Groussherzogtum Letzebuerg(グロウスヘルツォークトゥム・レツェブエシ)
英語: Grand Duchy of Luxembourg(グランド・ダチィ・オヴ・ラクセンバーグ)通称・形容詞ともLuxembourg、国民はLuxembourger。
日本語: 一般的な表記はルクセンブルク大公国、通称ルクセンブルク。外務省もこの表記を用いている。これはドイツ語読みに由来するものである。ルクセンブルグと表記されることもあるが[2]、ドイツ語規則に従えばルクセンブルクの方が近い。フランス語読みのリュクサンブールと表記されることもある。漢字表記は盧森堡。
歴史詳細は「ルクセンブルクの歴史」を参照
政治詳細は「ルクセンブルクの政治(英語版
立憲君主制。国家元首はナッサウ=ヴァイルブルク家が世襲するルクセンブルク大公。2022年現在、世界で唯一の大公国である[3]。