ルキウス・ウァレリウス・フラックス_(紀元前195年の執政官)
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Munzerは、この選挙結果はカトの助力無しではフラックスはローマの内政で良い結果を得ることは出来ないことを示しているとしている[33]
バルカン半島

グラックスが次に歴史に登場するのは紀元前191年のことである。執政官マニウス・アキリウス・グラブリオが、アンティオコス3世アエトリア同盟との戦争のために22,000の軍を率いてギリシアに渡った(ローマ・シリア戦争)。軍の幕僚には、フラックス、カトに加えティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌス、さらにスキピオ派に代表として、スキピオ・アシアティクス(アフリカヌスの弟)とルキウス・コルネリウス・スキピオ(アフリカヌスの息子)が加わっていた[39]。フラックスの肩書きはレガトゥス(副司令官)ともトリブヌス・ミリトゥム(高級士官)とも言われている[40]

グラブリオの軍はテッサリアの都市をいくつか降伏させたが、アンティオコスとアエトリア同盟はテルモピュレを占領し、南部への進路を遮断した。グラブリオは敵軍周囲に2つの分遣隊を派遣した。一つはカトが率い、もう一つはフラックスが指揮した。カトが敵軍の要塞化された高地を攻撃し、もし占領に成功したら続いて敵主力軍後方から攻撃をかけてこれを撃破する作戦であり、さらにフラックスの部隊が勝利を拡大する計画であった。「しかし、要塞への攻撃は無駄に終わった」[41]。にもかかわらず、この戦いからしばらく後に、ローマはトラキアのヘラクレアを4つの部隊で包囲し、グラブリオはフラックスをその指揮官の一人に任命した[42]。ヘラクレアが陥落すると、アエトリア同盟はローマとの講和を求め、フラックスが予備交渉の責任者となった。彼は敗者に対して、過去に同盟がローマに与えた利益等は訴えず、ローマの慈悲にすがるように助言した[43][44]。フラックス自身はアエトリア同盟側が受け入れられやすい条件を探した。紀元前211年マルクス・ウァレリウス・ラエウィヌスがアエトリア同盟との間に友好条約を結んでいたが、フラックスも同盟の保護者のようであった[45]

紀元前190年初め、フラックスはグラブリオと共にローマに戻った。同年、プラケンティアとクレモナを再建するための三人委員会に選ばれた[46]。他の委員は、法務官ルキウス・ウァレリウス・タップルスとマルクス・アティリウス・セラヌスであり、その政治歴を開始したばかりであったために、フラックスが実質的にこの委員会を率いた。
監察官

紀元前189年の政務官選挙では、フラックスとカトはローマの貴人達にとって最終的な目標といえる監察官(ケンソル)に立候補した。資料によるとこの選挙戦は激しく、フラックスの他に二人のパトリキ候補、ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌスとプブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカが出馬している。プレブス候補者はカトの他マルクス・クラウディウス・マルケッルスマニウス・アキリウス・グラブリオであった。ティトゥス・リウィウスは「この選挙自体が重要であるというより、別の要因により激しいものとなった」としている[47]。歴史学的には、これは「スキピオ派」(ナシカとブラブリオ)と「カト派」の衝突であった[48]

フラックスとカトが協力したとすると、他のペアはフラミニヌスとマルケッルス、グラブリオとナシカであったと思われる。最も当選のチャンスが大きかったのは、最も最近の戦争に勝利しており、さらにプレブス達に多くの贈り物をして人気を得ていたグラブリオであった。しかし、多くのノビレス達はノウス・ホモの台頭を嫌っており、グラブリオの市民への贈り物は贈賄とされて裁判にかけられた。また護民官もアンティオコスからの戦利品の横領疑惑でグラブリオを告訴した。カトもこの告発を支持した。このような状況となったため、グラブリオは立候補を取りやめたが、カトもまた立候補を辞退した。このため、フラックスはフラミニヌスに敗北してしまった[49]。プレブス側の当選者はマルケッルスであった[50]

紀元前186年バックス教団の信者に対する迫害が始まった。彼らは夜間に集会を行い、放蕩や泥酔を奨励し、結果犯罪の増加につながったと非難されたのである。フラックスは元老院議員として二番目にその宗教を禁止する法案に署名している(最初に署名したのはマルケッルスであった)[51]

監察官の選挙は5年毎であったが、紀元前184年の選挙にフラックスとカトは再び立候補した。選挙戦はまたもや激しいものとなった。パトリキ候補者はフラックスの他にはルキウス・フリウス・プルプレオ、スキピオ・ナシカ、スキピオ・アシアティクスおよびグナエウス・マンリウス・ウルソであった。後の3人は全て「スキピオ派」の人物である。プレブス候補者ではティベリウス・センプロニウス・ロングス (紀元前194年の執政官)がスキピオ派であり、加えてマルクス・フルウィウス・ノビリオルマルクス・センプロニウス・トゥディタヌスであった[52]

前年にカトがスキピオ兄弟に対する裁判で勝利し名声を得ていたため、フラックスとカトのペアの勝利の可能性が最も高いと思われた。このような状況の中、残りの候補者達は両者の当選阻止のために協力した。カトは対立候補達が「単独で戦えないために共謀している」と非難し、「監察官選出という純粋なモラルにしたがって彼とフラックスに投票するように」訴えた[53]。他方で対立候補は「優しさと柔軟性」を訴えた[54]。フラックス自身がどのように選挙活動を行ったかは、資料には記録されていない。明らかにカトの影の存在であった[9]


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