ルキウス・ウァレリウス・フラックス_(紀元前195年の執政官)
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その年の終わり、フラックスはローマに戻り[18]、弟ガイウスのために宣誓の義務を果たした(弟は神官であったため、自身で宣誓を行えなかった)[22]

紀元前199年、法務官に就任するとシキリア属州の総督となった[19]紀元前196年、終身職である神祇官(ポンティフェクス)であったマルクス・コルネリウス・ケテグスが死亡すると、ルフスがその後任として神祇官となった[23]。また、友人であるカトも出世階段を上っていた。その年の終わりの政務官選挙では、フラックスとカトは執政官に立候補した[18]
執政官

紀元前200年代、ローマではスキピオ・アフリカヌス派の影響が拡大していた[23]。同時にスキピオのコルネリウス氏族に対抗する勢力も徐々に拡大しており、フラックスもカトもそれに属していた。この「反スキピオ派」の勝利の一つは、フラックスが法務官選挙での勝利であった。歴史家はフラックスの上官であったプルプレオや、フラックスと同時に神祇官となったマルクス・クラウディウス・マルケッルスも、反スキピオ派であったと考えている。マルケッルスは紀元前196年の執政官でもあったため、翌年の選挙を管理した。このことは、フラックスとカトの当選の可能性を顕著に高めることとなった[24]

この年の執政官選挙に、他に誰が立候補したかの記録は無い。これは選挙に深刻な対立が無かったことを意味するのかもしれない。結果ルキウスとカトは執政官に選出された。また同じ反スキピオ派のプブリウス・ポルキウス・ラエカとアッピウス・クラウディウス・ネロは法務官に当選した[25][26]。くじ引きの結果、フラックスはイタリア本土、カトはヒスパニアを担当することとなった。しかし、まずは両執政官は紀元前217年に法務官アウルス・コルネリウス・マムラが立てた誓いを果たすため、「聖なる春」の儀式(Ver sacrum)を行う必要があった。誓いを成就するための方法は、神祇官が行うこととなり、フラックス本人とマルケッルスを中心に、ガイウス・セルウィリウス・ゲミヌスガイウス・リウィウス・サリナトルおよびグナエウス・セルウィリウス・カエピオが支援し重要な役割を果たした[27][28]。両執政官はユピテル神に豚、羊、山羊、牛の群れを献納した[29]。しかしその1年後、スキピオ派である最高神祇官プブリウス・リキニウス・クラッスス・ディウェス[30]が、この儀式は正確に行われなかったとし、再度儀式を行っている[18]

フラックスが執政官となって直ぐ、重要な出来事が起こっている。二人の護民官紀元前215年にガイウス・オッピウスが制定したオッピウス法(en:Lex Oppia)の廃止を提案した。この法は女性に宝石や高価な衣装の着用を禁止したものであった。この法を守るため、他の二人の護民官とカトが演説を行った。ローマのノビレス(新貴族)全体が、廃止を支持するものと支持しないものの二つに割れた。にもかかわらず、民会は女性の積極性を鑑みて廃案に賛成した。この決定を歓迎した民衆は、通りやフォルムに繰り出した[31]

この問題に対するフラックスの姿勢は、資料からは不明である。歴史学者F. Munzerは、廃案の提案者の一人であり、プレブス(平民)系ウァレリウス氏族としては最初の護民官であるルキウス・ウァレリウス・タポンに注目している。Munzerによると、タポンはフラックスと個人的にも政治的にも近い関係を維持していた。議論が分裂したということから、二人の執政官の姿勢は異なっていたはずで、パトリキ系のウァレリウス氏族が法案廃止の実際の主導者であったのかもしれない。古代の歴史家たちはこの件に関しては口を閉ざしているが、これはウラックスとカトの間に対立があったという伝統的な見方を崩したくなかったためであろう[32]

その後カトはヒスパニアへ出征し、フラックスはガリア・キサルピナで戦った。フラックスは破壊されたプラケンティアとクレモナを修復し[33]、翌年も前執政官(プロコンスル)としてその地に留まった[34]。古代の資料には、フラックスの大勝利が二度記録されている。一つは紀元前195年のリタナエの森近くでの戦い[35]、もう一つは翌紀元前194年のメディオラヌム(現在のミラノ)での戦いである[36][37]。しかし、この戦いの歴史的正確さに関しては疑わしい。この地域で戦った彼の先任者達は凱旋式を実施しているのに対して、フラックスはそれを実施していない[33]

紀元前195年末、フラックスは政務官選挙を管理するために一旦ローマに戻ったが、カトはヒスパニアに留まっていた。結果は「スキピオ派」の圧勝であった。執政官に当選したのはスキピオ・アフリカヌス本人と彼の盟友のティベリウス・センプロニウス・ロングスであり、法務官には3人のコルネリウス氏族ノウス・ホモ(新人)が一人であった[38]


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