ルキウス・ウァレリウス・フラックス_(紀元前195年の執政官)
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しかしその1年後、スキピオ派である最高神祇官プブリウス・リキニウス・クラッスス・ディウェス[30]が、この儀式は正確に行われなかったとし、再度儀式を行っている[18]

フラックスが執政官となって直ぐ、重要な出来事が起こっている。二人の護民官紀元前215年にガイウス・オッピウスが制定したオッピウス法(en:Lex Oppia)の廃止を提案した。この法は女性に宝石や高価な衣装の着用を禁止したものであった。この法を守るため、他の二人の護民官とカトが演説を行った。ローマのノビレス(新貴族)全体が、廃止を支持するものと支持しないものの二つに割れた。にもかかわらず、民会は女性の積極性を鑑みて廃案に賛成した。この決定を歓迎した民衆は、通りやフォルムに繰り出した[31]

この問題に対するフラックスの姿勢は、資料からは不明である。歴史学者F. Munzerは、廃案の提案者の一人であり、プレブス(平民)系ウァレリウス氏族としては最初の護民官であるルキウス・ウァレリウス・タポンに注目している。Munzerによると、タポンはフラックスと個人的にも政治的にも近い関係を維持していた。議論が分裂したということから、二人の執政官の姿勢は異なっていたはずで、パトリキ系のウァレリウス氏族が法案廃止の実際の主導者であったのかもしれない。古代の歴史家たちはこの件に関しては口を閉ざしているが、これはウラックスとカトの間に対立があったという伝統的な見方を崩したくなかったためであろう[32]

その後カトはヒスパニアへ出征し、フラックスはガリア・キサルピナで戦った。フラックスは破壊されたプラケンティアとクレモナを修復し[33]、翌年も前執政官(プロコンスル)としてその地に留まった[34]。古代の資料には、フラックスの大勝利が二度記録されている。一つは紀元前195年のリタナエの森近くでの戦い[35]、もう一つは翌紀元前194年のメディオラヌム(現在のミラノ)での戦いである[36][37]。しかし、この戦いの歴史的正確さに関しては疑わしい。この地域で戦った彼の先任者達は凱旋式を実施しているのに対して、フラックスはそれを実施していない[33]

紀元前195年末、フラックスは政務官選挙を管理するために一旦ローマに戻ったが、カトはヒスパニアに留まっていた。結果は「スキピオ派」の圧勝であった。執政官に当選したのはスキピオ・アフリカヌス本人と彼の盟友のティベリウス・センプロニウス・ロングスであり、法務官には3人のコルネリウス氏族ノウス・ホモ(新人)が一人であった[38]。Munzerは、この選挙結果はカトの助力無しではフラックスはローマの内政で良い結果を得ることは出来ないことを示しているとしている[33]
バルカン半島

グラックスが次に歴史に登場するのは紀元前191年のことである。執政官マニウス・アキリウス・グラブリオが、アンティオコス3世アエトリア同盟との戦争のために22,000の軍を率いてギリシアに渡った(ローマ・シリア戦争)。軍の幕僚には、フラックス、カトに加えティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌス、さらにスキピオ派に代表として、スキピオ・アシアティクス(アフリカヌスの弟)とルキウス・コルネリウス・スキピオ(アフリカヌスの息子)が加わっていた[39]。フラックスの肩書きはレガトゥス(副司令官)ともトリブヌス・ミリトゥム(高級士官)とも言われている[40]

グラブリオの軍はテッサリアの都市をいくつか降伏させたが、アンティオコスとアエトリア同盟はテルモピュレを占領し、南部への進路を遮断した。グラブリオは敵軍周囲に2つの分遣隊を派遣した。一つはカトが率い、もう一つはフラックスが指揮した。カトが敵軍の要塞化された高地を攻撃し、もし占領に成功したら続いて敵主力軍後方から攻撃をかけてこれを撃破する作戦であり、さらにフラックスの部隊が勝利を拡大する計画であった。「しかし、要塞への攻撃は無駄に終わった」[41]。にもかかわらず、この戦いからしばらく後に、ローマはトラキアのヘラクレアを4つの部隊で包囲し、グラブリオはフラックスをその指揮官の一人に任命した[42]。ヘラクレアが陥落すると、アエトリア同盟はローマとの講和を求め、フラックスが予備交渉の責任者となった。彼は敗者に対して、過去に同盟がローマに与えた利益等は訴えず、ローマの慈悲にすがるように助言した[43][44]。フラックス自身はアエトリア同盟側が受け入れられやすい条件を探した。紀元前211年マルクス・ウァレリウス・ラエウィヌスがアエトリア同盟との間に友好条約を結んでいたが、フラックスも同盟の保護者のようであった[45]

紀元前190年初め、フラックスはグラブリオと共にローマに戻った。同年、プラケンティアとクレモナを再建するための三人委員会に選ばれた[46]。他の委員は、法務官ルキウス・ウァレリウス・タップルスとマルクス・アティリウス・セラヌスであり、その政治歴を開始したばかりであったために、フラックスが実質的にこの委員会を率いた。
監察官

紀元前189年の政務官選挙では、フラックスとカトはローマの貴人達にとって最終的な目標といえる監察官(ケンソル)に立候補した。資料によるとこの選挙戦は激しく、フラックスの他に二人のパトリキ候補、ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌスとプブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカが出馬している。


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