フラックスの父は紀元前227年の執政官プブリウス・ウァレリウス・フラックス、祖父は紀元前261年の執政官ルキウス・ウァレリウス・フラックスであり、フラックスのコグノーメン(第三名、家族名)を使ったのは祖父が最初と思われる[3]。その後フラックス家は紀元前1世紀中盤まで活躍し、メッサラ家と並んでウァレリウス氏族の中でも最も繁栄した。祖父ルキウス以来6世代に渡って執政官を出している。
父プブリウスには息子が三人いたと推定され、執政官ルキウスは次男である。長男に関する記録は無いが、ローマの慣例からその名前はプブリウスであったと思われ、紀元前215年に艦隊プラエフェクトゥスを務めたものの若死にしたと推定される[4]。三男のガイウスもクルスス・ホノルム(名誉のコース)を歩み、紀元前183年には法務官に就任している[5][6]。また、娘が一人あった可能性もある。ディオドロスは、紀元前204年4月に、フリギアの偉大な女神を具現した聖なる石を受け入れたウァレリアという女性に言及している[7]。
紀元前152年の執政官ルキウス・ウァレリウス・フラックスは息子であり、ウァレリウス・フラックス家から出た執政官は全て彼の直系の子孫である[8]。 フラックスの生誕年は紀元前240年頃と推定される[9]。フラックスに関する最初の記録は紀元前209年のもので、この年に末弟のガイウスがユピテル神殿の神官となっているが[10]、ティトゥス・リウィウスは「兄のルキウスや他の親戚達が若いガイウスの悪行に耐えられなかったため」であると記録している[11]。この記録から、この時点でルキウスは家長であった(長兄は既に死去していた)と結論できる[12]。 この頃になると、フラックス家とマルクス・ポルキウス・カトとの間に個人的な関係ができていた。両者の関係は紀元前210年、早ければ紀元前216年に遡る[13]。プルタルコスによれば、両者の自宅は近接しており、両者ともに「気性の良さ、節度、仕事愛」といった美徳をもっていた。フラックスは若いカトを自宅に招き、ローマで政治家としての活動する能力があることを確信した。Kvashninは、フラックスがカトをマルクス・クラウディウス・マルケッルスの政治グループに紹介したと推測している[14]。カトがフラックスの助言を受けてフォルムに出入りし始めたと、後にマルクス・ペルペルナ(紀元前92年の執政官)が述べている[15]。ドイツの歴史家Friedrich Munzerは、第二次ポエニ戦争中というローマにとって最も困難な時期であったのにもかかわらず、両者の出会いが「牧歌的」であるとしている[12]。V. Kvashninは、フラックスがカトをマルクス・クラウディウス・マルケッルスのサークルに紹介したと仮説している。後にその関係を利用して、カトは紀元前204年の財務官(クァエストル)に当選している[14]。 フラックスの政務官としての最初の記録は紀元前201年、ハンニバルとの戦争が終了した年のものである。フラックスは上級按察官(アエディリス・クルリス)に就任している。同僚の上級按察官はルキウス・クィンクティウス・フラミニヌスであった[16]。両者は壮大な競技会を開催し、「市民にスキピオ・アフリカヌスがアフリカから持ち帰った大量の穀物を分配した」[17]。明らかにこの手段で市民の人気を獲得し[18]、翌年末の選挙でフラックス自身は法務官(プラエトル)に、弟のガイウスとカトは按察官に当選した[19]。 紀元前200年、自身は按察官と法務官の間の年であるが、フラックスは法務官ルキウス・フリウス・プルプレオのレガトゥス(副司令官)としてガリア・キサルピナに出征した[20]。第二次ポエニ戦争は終結していたが、カルタゴの元将軍ハミルカルがガリア兵を率いて反乱を起こし、プラケンティア(現在のピアチェンツァ)を占領しクレモナを包囲した。プルプレオはガリア軍と会戦を行い決定的な勝利を得たが、フラックスも戦闘では騎兵を率いて重要な役割を果たした。ティトゥス・リウィウスによると、35,000のガリア兵が戦死するか捕虜となり(ハミルカルも戦死した一人であった)、捕虜となって意がプラケンティア市民2,000も開放された[21]。
経歴
初期の経歴