ルキウス・ウァレリウス・フラックス_(紀元前100年の執政官)
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紀元前87年には、再び外征していたスッラの隙をついて、マリウスとルキウス・コルネリウス・キンナがローマを占領した。この間にスッラはバルカン半島でポントスとの間に第一次ミトリダテス戦争を戦っていたが、同時にマリウス派との決戦の準備も行っていた。フラックスが紀元前85年に元老院筆頭として演説を行い、スッラとの和平実現プロセスを協議させている記録[15]があることから、歴史学者は、元老院には両派閥間の妥協案を提唱した影響力のある中道主義者のグループがいたと考えている。このグループの指導者がフラックスであり、他にはルキウス・マルキウス・ピリップスグナエウス・コルネリウス・ドラベッラマメルクス・アエミリウス・レピドゥス・リウィアヌス等がいた。しかし、戦いが避けられないことが明らかになったとき、中道主義者たちは次々と、スッラの側に回っていった[16]

紀元前82年、この内戦でスッラが勝利する。フラックスは長く任命されていなかったインテルレクスに任命される[17]。そもそもインテルレクスの任務は、何らかの理由で執政官が任期を全う出来ない場合、新たに執政官を選出する民会を召集することであった。しかしフラックスは執政官選挙は行わず、「法律を制定し、共和国に秩序を回復する」(legibus faciendis et rei publicae constituendae causa)ために、スッラに終身ディクタトル(独裁官)の権限を与える法案を提出した(通常独裁官の任期は半年)。この法案は成立し、フラックスにはマギステル・エクィトゥム(騎兵長官、実際には独裁官副官)の地位が与えられた[18][19]。キケロは演説の中で、全ての法の中で最も不公平で法律らしくないのは、インテルレクスのフラックスがスッラにおもねって定めた「彼(スッラ)のしたことは全て批准されるべき」で、これは忌むべき法だが、彼自身というよりもあの時代の要請であったと語っている[20]

フラックスの没年に関する記録はない。しかしキケロは、紀元前63年のガイウス・ラビリウスの弁護において、「故人フラックスはまだ人々の記憶に新しい」と語っている[21]。また、ルキウス・コルネリウス・レントゥルス・ニゲルが紀元前64年にフラメン・マルティアリスに就任している(神官は終身職)ことから、歴史家F. ミュンツァーはフラックスの没年を紀元前64年と推定している[22]
脚注^ Valerius 89, 1948, s. 2311.
^ カピトリヌスのファスティ
^ Valerius 162ff, 1955, s. 4.
^ MValerius 162ff, 1955, s. 3-4.
^ Valerius 176, 1955 , s. 22-23.
^ Broughton, 1951, p. 163.
^ Valerius 176, 1955, s. 23-24.
^ プルタルコス『対比列伝:マリウス』、28.
^ Broughton, 1952, p. 6.
^ Bedian, 2010, p. 186.
^ ウァレリウス・マクシムス『有名言行録』、II, 9, 5.
^ キケロ『弁論家について』、II, 68; 274.
^ Broughton, 1952 , p. 54.
^ Valerius 176, 1955, s. 24.
^ リウィウス『ペリオカエ』83.4
^ Keaveney, 1984, p. 133-140.
^ Broughton, 1952 , p. 68.
^ Broughton, 1952, p. 67.
^ Korolenkov, Smykov, 2007, p. 314-316.
^ キケロ『農地法について』、3.5
^ キケロ『ガイウス・ラビリウス弁護』、27.
^ Valerius 176, 1955 , s. 25.

参考資料
古代の資料

ウァレリウス・マクシムス『有名言行録』

カピトリヌスのファスティ

プルタルコス対比列伝

マルクス・トゥッリウス・キケロ『弁論家について』

マルクス・トゥッリウス・キケロ『ガイウス・ラビリウス弁護』

マルクス・トゥッリウス・キケロ『農地法について』


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