1380年に甥シャルル6世が若くして即位すると、叔父であるアンジュー公ルイ1世、ベリー公、ブルゴーニュ公フィリップ2世(豪胆公)ら3兄弟と共に摂政の1人となった。摂政としての活動は上記の遠征の他は遠征費用の課税、マルムゼと呼ばれた王国中枢の官僚を追放したことが挙げられる。1388年にシャルル6世が親政を始めると国政から遠ざけられるが、1392年にシャルル6世が発狂して統治不能になると復帰、ベリー公と並ぶ穏健派として豪胆公とオルレアン公ルイ(シャルル6世の弟)の対立を抑えていた[3]。
ベリー公とは政略結婚を通して親密になり、1400年にルイ2世の息子クレルモン伯ジャン(後のブルボン公ジャン1世)とベリー公の娘マリーが結婚、この時交わされた契約で息子のいないベリー公の領土のうちオーヴェルニュとモンパンシエがジャンとマリー夫妻に継承されることが決められた。同年にボージュー卿エドゥアール2世が死去、遺領でブルボン公領の東にあるボジョレーは遺言でルイ2世へ譲られ、領土は南と東に拡大したが代償も大きく、ボージュー卿の膨大な借金返済と周辺諸国との関係改善に追われ、ベリー公とは所領譲渡と引き換えにブルボン家に子孫が途絶えた場合に王国へ領土を全て返上すると約束、男系が絶えたら追加領土を含むブルボン公領を失うリスクも背負うことになった[4]。
中央政界で豪胆公とオルレアン公の和解を取り持ったが効果が上がらず、1404年に豪胆公の後を継いだジャン1世(無怖公)とオルレアン公との対立が激しくなり、1407年にオルレアン公が無怖公の刺客に暗殺されると厳罰を要求したが、無怖公の軍事力を背景にした威圧で政府が妥協すると和睦に傾き、1409年にオルレアン公の遺児シャルルと無怖公を和睦させた。同年にヴィシーへ隠居、翌1410年に73歳で死去[5]。ブルボン公位はジャンが継いだが、ベリー公やオルレアン公らと共にアルマニャック派を形成、無怖公らブルゴーニュ派と武力衝突を引き起こしフランスは内乱に突入していった。 妻アンヌとの間に2男2女をもうけた。
子女
カトリーヌ(1378年 - ?) - 夭逝
ジャン1世(1381年 - 1434年) - ブルボン公
イザベル(1384年 - 1451年以降)
ルイ(1388年 - 1404年) - ボジョレー領主
脚注^ 上田、P27 - P30、P41 - P42。
^ 上田、P31 - P41、P47 - P49、佐藤、P99。
^ 清水、P57 - P58、上田、P25、P46、P50 - P51、佐藤、P95 - P99、
^ 上田、P51 - P53、P63 - P82。
^ 清水、P70 - P71、P85 - P86、上田、P37、P53 - P61。
参考文献
清水正晴『《青髯》ジル・ド・レの生涯』現代書館、1996年。
上田耕造
佐藤賢一『ヴァロワ朝 フランス王朝史2』講談社(講談社現代新書)、2014年。
先代
ピエール1世ブルボン公
1356年 - 1410年次代
ジャン1世
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