ルイ15世_(フランス王)
[Wikipedia|▼Menu]
アンジュー公ルイのみが、養育係のヴァンタドゥール夫人が瀉血治療を拒否して死を免れた。こうして、一人残された幼いアンジュー公ルイがフランス王位継承権第1位となり、王太子(ドーファン)となる。ブルボン家の不幸は続き、1714年にアンジュー公の叔父ベリー公シャルルも狩猟中に事故死している。
即位とオルレアン公の摂政摂政オルレアン公フィリップ2世

1715年9月1日、72年間王位にあったルイ14世が崩御し、わずか5歳のアンジュー公がルイ15世として即位する。本来なら幼いルイ15世の摂政を務めるのはルイ14世の甥のオルレアン公フィリップ2世であったが、ルイ14世は彼に不信感を持っていた。

ルイ14世はモンテスパン侯爵夫人との間に生まれたメーヌ公ルイ・オーギュストトゥールーズ伯ルイ・アレクサンドルに、自らの崩御後に幼君のため設置される摂政政府での重要な役割を与える遺言を同年8月に作成させている。彼らはルイ14世の後妻マントノン侯爵夫人(両人の養育係で王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュの死後に秘密結婚をしている)の願いにより、嫡出子とされていた(他の多くの庶子たちはこの待遇を受けていない)。

遺言では摂政は置かず、ルイ15世が成人するまで14名からなる摂政諮問会議を設置し、合議によって国政運営に当たることになっていた。摂政諮問会議はオルレアン公が座長となるが、メーヌ公とトゥールーズ伯を含むルイ14世の側近たちが加わっており、必然的にオルレアン公の権力は制限されることになる。

しかし、オルレアン公は中世以来の帯剣貴族(noblesse d'epee)の支持を受けており、ルイ14世によって国政から排除されていた彼らは政策の変更を望んでいた。更に彼らは、メーヌ公とトゥールーズ伯を私生児と見なして忌み嫌ってもいた。これに加えて、ルイ14世によって建言権を奪われていたパリ高等法院、そしてイエズス会ローマ教皇重視政策の変更を望むジャンセニスト(厳格主義信仰運動)とガリカニリスト(フランス教会自立主義)もまたオルレアン公を支持していた。

死の床にあったルイ14世はオルレアン公と和解しようとしたのか、崩御の数日前の8月26日に廷臣や大臣たちに「オルレアン公に従え、彼が王国を統治する」と語っていた。ルイ14世が崩御した翌9月2日、パリ高等法院で大臣や王族、大貴族の会議が開かれた。その場でオルレアン公は崩御数日前のルイ14世の言葉を持ち出して、自分に全権を与えるよう要求する。パリ高等法院はオルレアン公を支持して摂政諮問会議のメンバー選別の決定権を与え、ルイ14世の遺言は事実上無効化されてしまった。こうしてオルレアン公が摂政としての実権を握った。オルレアン公は支持の見返りとして、パリ高等法院に建言権を返還している。その後、パリ高等法院はこの権限をもって、事あるごとに王権に抵抗するようになる。

メーヌ公は非嫡出子に落とされて王位継承権を奪われ、失脚してしまう。メーヌ公はスペイン王フェリペ5世と通じて陰謀を企てるが、12月に露見して投獄され、後に国外追放となっている。10代のルイ15世、アレクシス・シモンベル作(1723年)

オルレアン公はパレ・ロワイヤルで執務を行い、幼いルイ15世は先王の遺言により、空気がよく健康に良いとの理由でヴァンセンヌ城へ移転させられた。だが、その4ヶ月後にはヴァンセンヌは冬が厳しいとの理由で、今度はパリ中心部のテュイルリー宮に移っている[1]

7歳になったルイ15世は、フランス王家の伝統に則って男性によって養育されることになり、ルイ15世は心から慕っていた養育係のヴァンタドール夫人と涙を流して別れた[2]。ルイ14世の遺言により新たな養育係となったのは、ヴィルロワ公フルーリー司教であった。ヴィルロワ公は宮廷作法を教えたが養育者としては凡庸な人物で、ルイ15世に良い影響を与えず、内気な性格を助長させただけだった[2]。一方、フルーリー司教は温雅な人物で教え子に優れた教育を施し、ルイ15世から敬愛される。

摂政となったオルレアン公は放蕩家として有名な人物だが、公私の分別はつけ、政治家としては有能だったという見方もある[3]。オルレアン公の摂政政府は1715年に大臣制を廃止して、帯剣貴族層を国政に参加させる多元的議会制(Polysynodie)と呼ばれる制度を導入した。彼はまた、もしもルイ15世が崩御すればフランス王位を主張できるスペイン王フェリペ5世を牽制するため、1717年イギリスとの同盟を成立させている。

多元的議会制は帯剣貴族たちに国政運営能力が欠如していたため上手く機能せず、3年で廃止となってしまっている。財政立て直しのためにスコットランド人のジョン・ロー財務総監に起用し、フランス初の紙幣を発行し、北アメリカ植民地の開発・貿易会社を立ち上げるが、バブル経済が発生して失敗し、多くの貴族たちが破産する結果となった(ミシシッピ計画)。

1721年、ルイ15世は従妹のスペイン王女マリアナ・ビクトリアと婚約した。3歳のスペイン王女は養育のためパリに移り住んだが、11歳のルイ15世はこの幼い婚約者に全く関心を示さなかった。1722年6月、ルイ15世はヴェルサイユ宮殿に移り、終生ここで暮らすことになる。同年10月、ルイ15世はランス大聖堂で成聖式を執り行った。1723年2月15日にルイ15世は13歳となり、パリ高等法院で成人を宣言して摂政政治が終わった。オルレアン公は引き続き宰相として国政に当たったが、同年12月に薨去した。フルーリーの助言に従い、ルイ15世はブルボン公ルイ・アンリを後任の宰相に指名する。
ブルボン公の執政と結婚王妃マリー・レクザンスカ

1725年2月にルイ15世が体調を崩し、2日程病床に伏した。若い国王の健康に王統の危機を心配したブルボン公は翌3月に、まだ幼く子を生むことが望めないスペイン王女マリアナ・ビクトリアとの婚約解消を決定する[4]。マリアナ・ビクトリアはスペインに帰され、このためスペインとの関係が一時悪化した[4]。代わって、ヨーロッパ諸国の中から出産可能な年齢の王女を選ぶことになった。なお、マリアナ・ビクトリアは後にポルトガル国王ジョゼ1世に嫁いでいる。

最終的に王妃は元ポーランド国王スタニスワフ・レシチニスキの娘で21歳のマリー・レクザンスカに決まる。スタニスワフは王位を失い国を追われた身であり、不釣り合いな結婚と見なされて国民の失望を買った[5]。婚儀は1725年9月に行われた。ルイ15世は王妃マリー・レクザンスカを熱愛し、王妃はほぼ毎年のように妊娠出産し、11人もの子を生むことになる。

宰相ブルボン公は失政続きで、穀物の価格が高騰し景気が悪くなり、国民の評判がひどく悪くなった。1726年、16歳になったルイ15世はブルボン公を罷免し、かつての養育係フルーリー枢機卿を事実上の宰相とした。
フルーリー枢機卿の執政フルーリー枢機卿イアサント・リゴー

フルーリー枢機卿は1726年から死去する1743年まで、ルイ15世の信任の下フランスを統治した。この時期はルイ15世の治世下では最も平和で繁栄した時代であり、ルイ14世期の戦争による人的物質的損失からの「回復」の時代(gouvernement "reparateur")と呼ばれている。

フルーリー枢機卿は大蔵卿ミシェル・ロベール・ル・ペルティエ・デ・フォール(1726年 - 1730年)と後任のフィリベール・オリ(1730年 - 1745年)の助けを受けて、1726年に貨幣を安定化させ、1736年には収支の均衡に成功した。また1738年にはサン・カンタン運河を開通させてオワーズ川ソンム川をつなぎ、後にスヘルデ川ネーデルラントにまで拡張している。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:97 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef