ルイ14世_(フランス王)
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これを知ったルイ14世は激怒してフーケを逮捕し、投獄した[注釈 1]ジャン=バティスト・コルベール

1665年財務総監に任命されたのが、フーケのライバルであったジャン=バティスト・コルベールである。ルイ14世が親政を始めた時点で、フランスの財政は多年の戦費とフロンドの乱により破産しかかっていた。コルベールはより効果的な税制の運用を行い、国家の債務を削減した。主な税制には間接税 (aides)、物品税 (douane)、塩税 (gabelle) そしてタイユ税(土地税:taille)がある。コルベールは貴族と聖職者の免税特権の廃止まではしていないが、税の徴収と運用方法を改善できた[33]

コルベールには貿易を通じてフランス経済を向上させる広範な計画があった。彼はいわゆる保護関税政策を取り、世界の銀の量は一定であるとの考えの元、輸入を減らして輸出を増やす政策を行った[34]。彼は贅沢品の輸入を禁止または高い関税を課す一方で、輸出産業振興のために王立マニファクチュールの設立や輸出品製造業者を対象とした特権マニファクチュールを設けるなどこれを保護・育成する施策を講じた[34][35]。また、1669年に海軍卿に就任したコルベールは海軍力の増強して、フランスを海軍大国に押し上げている[36]。後にイギリス[注釈 2]・オランダと貨幣戦争を引き起こすことになる彼の王室的重商主義はコルベール主義(コルベルティスム Colbertisme)と呼ばれている[35]。彼はこの海軍力の保護のもとでイギリス・オランダの海外市場に割り込もうと、南アジアを対象とした東インド会社では亡命新教徒で長く日蘭貿易に携わり商館長まで務めたフランソワ・カロンを引き抜いて長官に据えた。そしてカリブ海を対象とした西インド会社を再創設、植民地を建設した[37]北アメリカの植民地が拡大され、ヌーベルフランス(カナダ)やアンチール諸島には総督が送り込まれて人口増殖政策と同化政策がすすめられ、ヌーベルフランスの人口は4倍に増えている[38]

ルイ14世は聖職者や大貴族を抑制するためにブルジョア層出身者を重用しており、主な側近にはコルベールの他に陸軍担当国務卿ミシェル・ル・テリエと外務担当国務卿ユーグ・ド・リオンヌがいる。また、ル・テリエの息子で同じく陸軍担当国務卿となったルーヴォワ侯は傑出した軍政家で、軍制の改革を行い国王直属の士官の人数を増やして連隊長だった貴族を牽制、兵舎の設立など後方支援の整備、国王民兵制(徴兵に近い兵制)による貴族を経由しない軍事力の獲得でフランス軍の質量両面の増強を成し遂げ、彼の作り上げた軍隊がルイ14世治世下で行われた幾多の戦争を支えることになる[39]ルイ13世の小城館を改築した造営初期のヴェルサイユ宮殿
Pierre Patel画、1668年頃。

コルベールによってルーヴル宮の拡張がなされたが、1661年に狩り場の小館があったヴェルサイユの地に宮殿の建設を開始した[40]。これがルイ14世の治世を象徴するヴェルサイユ宮殿となる。この地に宮殿を造営した理由は一般的にはルイ14世がフロンドの乱での苦い経験があるパリを嫌ったためともされるが[41]、実際にはこれは理由ではなく彼は森と自然の地に自らの構想による新宮殿を造営することに拘ったためともされる[42]。この地は水利が悪く、工事は難航して、一応の完成を見て宮廷が移り住むのは20年後の1682年のことになる[43]

ルイ14世は、負傷したり老齢化した、忠実に国王に仕えた将校のためのオテル・デ・ザンヴァリッド(アンヴァリッド、廃兵院)の建設を命じた。精神障害者犯罪者浮浪者対策として1656年に「一般施療院令」とその強化令が発せられ、労働をしない者を(らい)施療院だった建物を転用して収容した[44]。その大規模な施設として、総合施療院、ビセートル病院(男性)、サルペトリエール病院(女性)の建設を指導するなど[45]、公共の福祉にも関心を払っている。
治世前半の戦争と領土拡大詳細は「ネーデルラント継承戦争」および「仏蘭戦争」を参照

1659年のピレネー条約によってスペインの弱体化が決定的となり、フランス優位の時代に入った[46]。ルイ14世は「盟主政策」と呼ばれるフランス王権を中心としたヨーロッパ体制の構築を企図しており、その最大の障害は疲弊したスペインではなく、海外貿易で莫大な富を築いていた新興勢力のオランダ(ネーデルラント連邦共和国)であると考えられた[47]。オランダ内での議会派(都市商人)と総督派(封建貴族と農民)との内紛がルイ14世の企図を助けていた。当時のオランダは議会派のヨハン・デ・ウィットが指導者となっており、古くからの大貴族である総督派のオラニエ公ウィレム3世が巻き返しを図ることを恐れていた。帰属戦争におけるルイ14世。
シャルル・ルブラン画、1667年。

没落したスペインがルイ14世の最初の標的となった[48]。ルイ14世はスペイン植民地に対する野心を持つイギリス、さらには神聖ローマ皇帝レオポルト1世と結んでスペイン帝国の分割を交渉する[49]。オランダとも防御・通商同盟を結び来たるべき対スペイン戦争に備えた[50]

1665年にルイ14世の義父であるスペイン王フェリペ4世が崩御すると、後妻が生んだ王太子が即位してカルロス2世となった。王妃マリー・テレーズの持参金がスペインからまったく支払われていない上にフェリペ4世の遺言ではカルロス2世が死去した場合、神聖ローマ皇帝レオポルト1世の婚約者マルガリータ・テレサ(マリー・テレーズの妹)がスペイン領を相続することになっており、ルイ14世を苛立たせた[51]。これに対してルイ14世はブラバント(スペイン領ネーデルラントの一州)はカルロス2世の異母姉である王妃マリー・テレーズが継承するべきものであるといわゆる「王妃の権利論」を掲げて領土の割譲をスペインに要求した[52]

1667年に帰属戦争(フランドル戦争)が勃発すると、ルイ14世は自ら軍を率いて戦った。兵数と装備で圧倒するフランス軍はフランドル国境地帯の要衝を容易に奪い取り、スペイン軍を後退させた[53]。これに危機感を持ったオランダのウィットはこれ以上のフランスからの侵略を防ぐために、イギリスの外交官ウィリアム・テンプルと交渉をし、1668年にイギリスそしてスウェーデンとの三国同盟を結成した[54]。イギリス・オランダといった海軍・通商の二大勢力の圧力を前にルイ14世は和平へと動いたが、フランシュ=コンテは断固として征服させた[55]


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