ルイ14世
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ブルボン家カペー朝ルイ9世の血統の有力家門であり、ルイ14世の曾祖父に当たるアントワーヌ・ド・ブルボンナバラ女王ジャンヌ・ダルブレと結婚したことでブルボン家はナバラ王位と結びつく。ジャンヌ・ダルブレが熱心なプロテスタントであったことから、その子のアンリ・ド・ブルボンはフランス宗教戦争(ユグノー戦争)におけるユグノー(フランスのプロテスタント)陣営の盟主となる。1589年にアンリ3世が暗殺されたことによってヴァロワ朝が断絶すると筆頭王位継承権者だったナバラ王アンリ(アンリ・ド・ブルボン)が即位し、新たにブルボン朝が開かれた(アンリ4世)。アンリ4世はカトリックに改宗して国内の支持を固め、その一方でナント勅令を出してプロテスタント信仰の自由を(制限付きながら)認め、長期にわたる内戦を終わらせた。1610年にアンリ4世が暗殺されると嫡男のルイ13世が即位した。ルイ13世は有能なリシュリュー枢機卿を宰相に起用し、フランスにおける絶対王権の基礎を固めた。

1638年9月5日にルイ14世がサン=ジェルマン=アン=レーで生まれた時、ブルボン王家の男子はルイ13世の弟オルレアン公ジャン・バティスト・ガストンのみであり、ブルボン家はルイ14世の誕生で辛うじて命脈をつないだ。両親であるルイ13世と王妃アンヌ・ドートリッシュは不仲で23年間子が生まれることがなかったため、国王も国民も待望の王位継承者の誕生を大いに祝福した[4]。一方で、この子の本当の父親はルイ13世ではないと一部で様々な噂も広まった[5](詳細は「#出生を巡る俗説」参照)。

ルイ14世は多彩な文化的背景の生まれで、父方の祖父母はアンリ4世とフィレンツェ出身のマリー・ド・メディシス、母方の祖父母はスペイン王のフェリペ3世とオーストリア出身のマルガレーテ・フォン・エスターライヒである。彼は「ルイ・デュードネ」(Louis-Dieudonne、神の賜物の意)の洗礼名を授かった。そして、「フランスの長男」(premier fils de France) 及び、より伝統的なドーファン(王太子)の称号を受けた。

ルイ13世とアンヌは1640年にもう一人の男子フィリップをもうけている。だが、ルイ13世は王妃を信用しておらず、自らの崩御後に王妃が国政に影響力を持つことを防ごうとして、摂政諮問会議の設置を遺言した[6]1643年5月13日にルイ13世が41歳で崩御すると、僅か4歳のルイ14世が即位して母后アンヌが摂政となった。だが、摂政アンヌとマザランはパリ高等法院の支持を受け、ルイ13世の遺言を破棄して摂政諮問会議を廃止してしまう[7]。アンヌはマザランを摂政会議の座長(実質的な宰相)に抜擢して全権を委ねた[8]。マザランは有能な政治家ではあったが、一方で貪欲なまでに私財を蓄える癖があり、財政逼迫によって苦しめられていたフランスの民衆も貴族もスペイン人の摂政太后とイタリア人(フランスに帰化はしていた)の枢機卿を憎んでいた[9]
マザラン枢機卿の執政とフロンドの乱詳細は「ジュール・マザラン」および「フロンドの乱」を参照ジュール・マザラン
Pierre Louis Bouchart画。

ルイ14世が即位した当時のフランスは、先王ルイ13世と宰相リシュリュー枢機卿によって大貴族とユグノー勢力を抑制して国王集権化が進められており、また対外的には三十年戦争に介入してハプスブルク家神聖ローマ皇帝及びスペインと戦っていた。

摂政アンヌから宰相に任じられたマザランはリシュリューの腹心だった人物で、前任者の中央集権化政策を引き継ぎ、貴族を抑制して国王の権力を強化しようと図っていた[10]。また対ハプスブルク家政策としての三十年戦争への介入も続けた。有能なコンデ公ルイ2世テュレンヌ子爵に率いられたフランス軍は戦況を有利に展開させ、マザランは終戦交渉に入る。マザランの外交手腕によりフランスはアルザス地方を獲得し、神聖ローマ帝国の分裂を決定づけ、ハプスブルク家の勢力の弱体化に成功することになる[11]。だが一方でその戦費も莫大なものとなり、重税が課され民衆の不満が高まっていた[12]

和平交渉が大詰めとなった1648年フロンドの乱が勃発する。7月、政府が新税の導入を図ると、これに反対するパリ高等法院が他の高等諸院と合同してアンタンダン(地方監察官)の廃止を含む27カ条の要求書を出した[13]。マザランは一旦は譲歩の姿勢を示すが、8月に入ると首謀者を逮捕する。これに反発したパリの民衆がバリケードを築き蜂起した。パリ高等法院の法服貴族と民衆が結びついてパリは無政府状態に陥り、ルイ14世と摂政アンヌはパリを脱出する。それから程なくしてヴェストファーレン条約が締結されて三十年戦争が終結すると、コンデ公率いるフランス軍が国王を助けるために帰還した。1649年1月にコンデ公はパリを包囲する。3月にリュイユ和議が締結され、乱はひとまず収まった(高等法院のフロンド)[14]

王室はパリに戻ったが、乱平定の功績者コンデ公とマザランが対立して貴族のフロンドが勃発する。マザランに対する貴族と民衆の不満から反乱軍の勢力は強く、マザランは一時亡命を余儀なくされ、ルイ14世は再びパリから逃れざるを得なくなった[15]。パリに入城したコンデ公が優位に立つが、1652年に満13歳を迎えたルイ14世が成人を宣言するとパリ高等法院は王権側に付き、コンデ公はパリからの退去を余儀なくされてフロンドは分裂した[16]。1652年に優位に立った王太后がマザランをフランスに呼び戻すと高等法院は再び王権に背き、コンデ公がパリに舞い戻った。だが、コンデ公はパリ市民の支持を受けられず、混乱の長期化に疲弊したフロンド派が相次いで脱落し、1653年にコンデ公はスペイン領ネーデルラントへ亡命し、ルイ14世はパリへ帰還して乱は終結した[17]

マザランは乱中の譲歩を次々と撤回して、高等法院を抑え込みにかかり、伝統的な帯剣貴族たちによる全国三部会開催要求も無視した[18]。この頃の出来事として、17歳のルイ14世が狩猟の帰りに乱の根源となっていたパリ高等法院に立ち寄り、法服貴族たちを高飛車に恫喝して有名な「朕は国家なり」(L'Etat, c'est moi) の科白を言い放ったというエピソードがヴォルテールの『ルイ14世の時代』に記述されている[19]。ルイ14世を象徴する有名な言葉ではあるが、現代の研究では実際にルイ14世が発した言葉ではなく創作であると考えられている[20]ルイ14世とマリー・テレーズ・ドートリッシュとの婚儀。
デストラン作画のタペストリー[21]、17世紀。

三十年戦争は終わったが、フランスはスペインとの戦争を継続しており、テュレンヌがフランス軍司令官としてスペイン軍に属したコンデ公とネーデルラントで戦った(フランス・スペイン戦争)。フランスはイングランドから軍事支援を受け、1658年ダンケルク近郊の砂丘の戦いで英仏同盟は勝利した。翌1659年に結ばれたピレネー条約によってピレネー山脈を境界とするフランスとスペインの国境を確定、ルイ14世はスペイン王フェリペ4世の王女マリア・テレサ(マリー・テレーズ)と婚約した。

この頃、ルイ14世はマザランの姪マリー・マンチーニと恋仲になっておりスペイン王女との結婚を拒絶したが、事は国益の問題であり、マザランはルイ14世とマリーを無理やり別れさせている[22]


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