ルイ・リエル
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これらの使者が未だその道中にあった12月8日にメティ民族委員会は臨時政府の樹立を宣言し、12月27日にリエルはその首長に就任した。

1870年1月5日6日にリエルとオタワからの使者との間に会談が持たれたが不調に終わり、使者のスミスは懸案問題を公開討論会に付す道を選択した。スミスは1月19日20日の会合において臨時政府に賛意を示す大観衆の身の安全を保証し、スミスの説明をフランス系、イギリス系の両移住者が公平に考慮する機会を持てるようにと、リエルに対し新しい代表者会議の場を設けたるように働きかけを行った。こうして2月7日になると、オタワの使者一行に対し新たな権利義務一覧が提示され、その基本線にしたがって直接交渉のためにオタワに代表を送ることでスミスとリエルの間に合意ができた。
カナダ党の抵抗とスコットの処刑

こうして政治的な領域では目覚しい進展があったものの、カナダ党の臨時政府に反対する計画は継続していた。しかし、2月17日にボールトンやトーマス・スコットらを含む48名がギャリー砦近郊で逮捕されると、カナダ党の企ては挫折に追い込まれた。ボールトンはアンブロワーズ=ディディム・ルピーヌ(Ambroise-Dydime Lepine)の指揮する法廷で裁かれ、臨時政府に対する反逆の咎により死刑を宣告された。後にボールトンは赦免されたが、スコットはこの処置について公衆の面前における侮辱を与えただけにすぎず、メティ側の脆弱さの表れであると解釈した。スコットに対する見張り番たちは何度か彼といさかいを起こした後に、不服従の咎によりスコットに対する再審問を強く求めた。この再審問の結果、臨時政府に対する公然の反抗の罪によりスコットには死刑が宣告された。リエルは再三にわたって減刑を懇願されたが、ドナルド・スミスによればリエルは、「勧めによりボールトンの命を永らえたし、ギャディも救ったから、スコットまでは…」という旨を述べたとされている。スコットは結局3月4日に銃殺刑に処せられた。リエルが処刑を容認した動機については様々な憶測を招いているが、自身の弁明に依れば、カナダ党の構成員達にメティは本気であることを知らしめる必要があると感じたと伝えられている。
マニトバ州の創設とウルズリーの遠征

3月には連邦首都オタワに向けて臨時政府の代表団が出発した。代表団は最初のうちはスコットを処刑したことに関し法的な面で苦境に立たされたが、間もなくマクドナルド首相やジョルジュ=エティエンヌ・カルティエらとの直接会談を行うことが可能となった。双方は権利義務一覧に盛り込まれた要求事項のほとんどを正式なものとする旨の合意に達したが、これがマニトバ州の連邦入りを公式に承認する1870年5月12日のマニトバ法の基礎となった。しかし、交渉の結果代表団たちは臨時政府に対する大赦を勝ち取ることはできなかった。連邦政府の権威を居留地に及ぼしアメリカ拡張主義者達を思いとどまらせるために、ガーネット・ウルズリー大佐の指揮するカナダ軍の遠征隊がレッド・リヴァーに向けて派遣された。連邦政府側は軍の派遣を「平和の使者」と表現したが、リエルは遠征軍の一部民兵が彼に対する私的制裁を狙っていることを察知し、同軍がレッドリヴァーに接近した際に国外逃亡を図った。8月24日の遠征軍到着によりレッドリヴァーの乱は事実上その終わりを告げた。
乱と乱の狭間
恩赦の審問

9月2日になると新副総督のアダムス・ジョージ・アーチボルドが着任し、新政府の成立を宣言した。リエルは恩赦を得られず、また民兵達は親リエル派を叩き威嚇を加えたことから、セント・ヨゼフ伝道所の保護の下に国境を越えダコタ準州へ逃亡した。1870年12月に行われた第一回州議員選挙の結果、リエルを支援する者が数多く勢力を持つこととなった。しかし、リエルは精神的重圧と経済的困窮から身体の調子がすぐれず(この不調は後の精神的な病の前兆とされている)、1871年5月になってやっとマニトバへの帰還が叶った。

このころのレッドリヴァー居留地は新たな脅威に直面していた。リエルのかつての盟友ウィリアム・バーナード・オドノヒュー(William Bernard O'Donoghue)の率いるフィニアン同盟員(アイルランド系)が国境を越えてマニトバへの襲撃を行ったのである。この脅威は後に誇張されすぎた話であることが判明したが、副総督アーチボルドは10月4日軍の召集を宣言した。武装騎馬兵の部隊が編成され、うち一部隊をリエルが率いた。アーチボルドはセント・ボニファスで行われた閲兵式の折、大げさな仕草でリエルと握手を行い友好関係の回復がなったことを公式にアピールした。しかし、現実はこれと異なり、この和解の知らせがオンタリオ州に届けられると、メイアーを始めとする「カナダ第一運動(Canada First movement)」の構成員は、反リエル(及び反アーチボルド)の気運を再起させるためにしきりに民衆を扇動した。

1872年の連邦選挙において、マクドナルド首相はまずいことにケベック州とオンタリオ州間に更なる溝を生じさせた。そこでマクドナルドはタシェを通じてリエルに1,000カナダドルの賄賂を提供するとともに自発的に亡命するよう工作を行った。またスミスからは、リエルの家族の賄費として600ポンドが追加提供された。他に選ぶ道もなくリエルは1872年3月2日ミネソタ州セントポールに辿り着いた。しかし、6月末にマニトバ州に戻ると間もなくProvencher 選挙区から連邦議員選挙に立候補することを表明した。ところが、9月初旬にカルティエが地元選挙区のケベックで敗けると、リエルはカルティエ(記録によればリエルの恩赦について好意的な立場であった)が議席を確保できるようにと支援を行った。こうしてカルティエは選挙に圧倒的な勝利を収めたが、リエルの望んだ恩赦審問による早期解決の夢は1873年5月20日のカルティエの死により潰えた。

1873年10月の補欠選挙にリエルは無風状態で立候補したが、9月に彼に対する逮捕状が発行されると再び逃亡した。このときルピーヌは不運にも捉えられ、裁判にかけられた。リエルは、逮捕や暗殺を恐れながらモントリオールに向かい、下院議員の議席に就くべきかどうか逡巡していた。というのもオンタリオ州首相のエドワード・ブレークは、リエルの逮捕に5,000ドルの懸賞金を掛けていたからである。リエルは1873年の「パシフィック・スキャンダル(カナダ太平洋鉄道の建設工事受注を巡る贈収賄事件、11月にマクドナルド保守党内閣の退陣に発展)」の議事に出席しなかった唯一の国会議員であったことが知られている。カナダ自由党の党首アレクサンダー・マッケンジーが臨時の連邦首相となり、1874年1月に総選挙が行われた。こうしてマッケンジー率いる自由党は新内閣を発足させたが、リエルはその議席を維持した。杓子定規にいえばリエルは選挙で議員に選ばれた時にすくなくとも一度は議員名簿に署名を行う必要があったため、1月下旬に形式を整えるための署名を行っている。ところが、この議員名簿の署名漏れを種にして、リスガー選挙区から選出されたシュルツが支援した運動により、リエルは非難を浴びた。リエルの勢いはこの運動でも止まることなく補欠選挙で再選を果すが、またも追放処分となった。こうして、リエルの象徴的なイメージが形成されケベック州における世論は大変な勢いで親リエルに傾いていった。
国外逃亡と精神疾患

今度の亡命期間中リエルはニューヨーク州プラッツバーグ近郊にあったフランス系カナダ人の村キースビルで暮らしたが、ここでルピーヌの命運について知らせを受けた。それは1874年10月13日に始まったスコット殺害容疑に係る一連の裁判で、ルピーヌは有罪となり死刑判決が下されたというものであった。この判決に対し、Lepine に同情的であったケベック州の新聞は憤怒の報道を行い、ルピーヌ、リエル両者の恩赦を求める声に再び火がついた。


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