ルイ・フィリップ_(フランス王)
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ひとまずは妹ルイーズ・マリー・アデライードとともにスイス(英語版)に行き、仮名を使ってライヒェナウ(英語版)で教師を数か月務めた[1]
王政復古まで

1793年11月に父が処刑されると、シャルトル公はオルレアン公位を襲爵、オルレアニストの中心人物になった[1]。1795年にはデュムリエとともにハンブルクに向かった[1]。デュムリエはオルレアン公を王位につけようとしたが、オルレアン公は慎重に行動し、アメリカ合衆国に行く予定であると発表しつつ、フランスの情勢の改善を期待して予定を遅らせ、代わりにスカンディナヴィア諸国に向かった[1]。1796年に総裁政府がそれまで投獄していたオルレアン公の母と弟2人を釈放し、その代償としてオルレアン公がアメリカに向かうと打診すると、オルレアンはそれに応じてアメリカに向かい、10月にはフィラデルフィアに着いた[1]。1797年2月には弟モンパンシエ公アントワーヌ・フィリップ(英語版)とボージョレー伯ルイ・シャルル(英語版)が合流してきた[1]。以降3人は1799年までニューイングランド五大湖ミシシッピ川流域を旅し、1799年11月のブリュメール18日のクーデターの報せが届くとヨーロッパに戻ることを決めた[1]

3人は1800年初にヨーロッパに着いたが、このときにはナポレオン・ボナパルトが権力を掌握しており、オルレアン公はデュムリエの助言を容れて2月にアルトワ伯シャルル(のちの国王シャルル10世)に会い、アルトワ伯の仲介で亡命中のルイ18世と和解した[1]。ただし、コンデ公ルイ5世ジョゼフの軍勢に合流することは最後まで拒否した[1]。その後、オルレアン公は1807年まで弟2人ともにロンドン近郊のトゥイッケナムに住んだ[1]

モンパンシエ公は病気ののち、1807年5月18日に療養地で死去した[1]。ボージョレー伯も同じ病気を患い、オルレアン公はボージョレー伯を療養のためにマルタに連れていったが、ボージョレー伯は1808年5月29日に同地で死去した[1]。オルレアン公は続いてナポリ王フェルディナンド4世の招請を受けてパレルモを訪問、1809年11月25日にフェルディナンド4世の娘マリーア・アマーリアと結婚した[1]。以降1814年にナポレオンが退位するまでシチリア島に留まった[1]

ナポレオンの退位とともにフランスに戻ったオルレアン公はルイ18世に歓迎され、オルレアン公家の領地を取り戻した上、自身の財政の手腕で富を蓄積、1821年に母が死去した時点で財産が800万ポンド[1](2021年時点の£725,553,191と同等[2])に上った。しかし復古王政期の政界では反動政治が主流であり、野党の自由主義者に同情的なオルレアン公は疑いの目で見られ、実際に1815年秋に貴族院での行動により一度イングランドのトゥイッケナムに2年間追放された[1]。一方で一介のブルジョワのように子女を公立学校に送ったことで中流階級の人気を得て、パリにあるオルレアン公の宮殿パレ・ロワイヤルは中流階級政治家のたまり場になった[1]
7月王政

1830年の7月革命ブルボン朝復古王政が倒れたとき、オルレアン公は表に出ず慎重に行動し、ヌイイ=シュル=セーヌ、ついでル・ランシーに避難した[1]。そして、アドルフ・ティエールが共和制はフランスをヨーロッパ全体と敵対させ、オルレアン公は「革命の精神に忠実なプリンス」として、フランスが望む「市民の王」になれると主張すると、オルレアン公はティエールとジャック・ラフィット率いる代表団の招請を受けて、7月30日にパリに戻り、代議院より王国総代理官に任命された[1]。さらに31日にはトリコロールのスカーフをつけて、共和派の本拠地であるパリ市庁舎に行進、そこでジルベール・デュ・モティエ・ド・ラ・ファイエットに歓迎された[1]。『ブリタニカ百科事典第11版』はこれを共和派が共和政設立が現実的に不可能だったと認め、民意に基づく君主制を受け入れるジェスチャーであると評した[1]。フランス王シャルル10世はオルレアン公を王国総代理官に指名し、王位を孫のシャンボール伯に譲った上でオルレアン公を摂政に任命したが、代議院は8月7日にシャルル10世の廃位を可決し、オルレアン公ルイ・フィリップを「フランス人(フランス国民)の王」(roi des Francais)と宣言した[1]ルイ=フィリップ1世
(1842年撮影)

国王となったルイ・フィリップ1世は馬車から王権の象徴であるフルール・ド・リスを消し、自身の宮殿であるパレ・ロワイヤルを一般公開することで民主主義者を宥和し、一方で諸外国には革命的でない面を強調して自身の政権を承認させた[1]。1831年に保守派のカジミール・ピエール・ペリエ(英語版)内閣が成立すると、ルイ・フィリップ1世は「フランスは君主が国に属すると望んだが、無力にすることは望んでいない」と宣言し、王権の象徴として王家をテュイルリー宮殿の公邸に移した[1]。1832年の六月暴動など共和主義者、社会主義者による蜂起が頻発したこともルイ・フィリップ1世に有利に働き、ルイ・フィリップ1世は中流階級の守護者としてのイメージを強化することができた[1]。議会選挙が制限選挙で中流階級以上しか投票できなかったため、ルイ・フィリップ1世は国内の地位が強固であると考え、政策がだんだんと反動的に傾いていった[1]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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