ルイ・ド・フュネス
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[14]彼は夜中まで12時間に及び様々なハコで演奏し、そのギャラとレッスン料で小さなるつぼの家賃を払って貧窮な生活を立てていた[15]

私は1942年にマドレーヌ寺院界隈でピアニストをしていた彼と出会った。場末のビストロで私は彼とピアノの連弾をした。最後に私が一人で弾いている間、ド・フュネスはピアノの上によじ上って歌った[16]。--映画人ジョルジュ・ロートネルの回想

彼は『Pas de week-end pour notre amour(僕らの愛に週末は無い)』、『La Rue sans loi(無法地帯の通り)』、『サラサラと鳴る Frou-Frou』, 『大追跡 Le Corniaud』, 『大進撃 La Grande Vadrouille』, 『パリ大混戦 Le Grand Restaurant (大レストラン)』 そして 『オーケストラの男 L'Homme orchestre』 といったいくつもの映画の中で、当時のこのような仕事を演じている。

1943年にジャンヌ=オーギュスティーヌ・バルテレミー・ド・モーパッサン[17](2015年3月13日に101歳で死去[18]。作家のギ・ド・モーパッサンの家系の出身[18])と再婚する。2人はモーブージュ通り42番地の小さな二間に住む。1944年、次男のパトリックが、そして1949年には三男のオリヴィエが生まれた。オリヴィエはのちにその父の6本の映画制作に携わり、またOscarではキャストを演じた。
最初の舞台

1942年、28歳の時、彼は喜劇役者になる決意をし、モリエールの戯曲『スカパンの悪だくみ』を演じた事でルネ・シモン演劇教室の入学試験に合格した[19]。在籍期間はわずかしか無かったものの[20]、のちにMarc-Gilbert Sauvajon脚本の映画L'Amant de pailleでド・フュネスが出演するきっかけを作った俳優ダニエル・ジェランなど多くの仲間と知り合う。

驚くべき偶然だった。ある日私がメトロの先頭車両から降りると、次の車両にルネ・シモン演劇教室で知り合いだったダニエル・ジェランが乗り込むのを見かけた。電車の扉が閉まる瞬間、彼が私に叫んだ。「明日電話してくれよ。君にちょっと仕事を頼みたいんだ[19]。」--ルイ・ド・フュネス

ダニエル・ジェランも、仔細は異なるものの、このメトロのホームでの出会いを自伝に書いている[21]

劇場での端役をこなす間、ド・フュネスはピアニストとしてレッスンや夜のパリのバーでの演奏で糊口を凌いでいた[22]。1945年、またもやルイが「私の幸運」とあだ名するダニエル・ジェランのおかげで[23]、Jean Stelliの映画『La Tentation de Barbizon(バルビゾンの誘惑)』でデビューする。脇役であるがキャバレー『天国』の門番として、彼は映画の中で最初のセリフを発する。閉じた入口に入ろうとする客(ピエール・ラルケイ)に向かって、「ふん、今日は酔っぱらってやがるな!」その後も様々な端役・脇役をこなしていき、時には Bernard de LatourのDu Guesclin (1948年)のように、バンドの指揮者、占い師、大家と、一つの映画の中で複数の役を演じたこともあった[24]。1949年、当時人気作家だったLuis Marianoの喜劇『Pas de week-end pour notre amour(僕らの愛に週末は無い)』で、準主役である男爵専属のピアニスト(主役はジュール・ベリー)を演じ、オペレッタの雰囲気をスクリーンに持ち込み、またクラシックやジャズのナンバーを演奏した[注釈 12]
人気上昇

1950年、彼はマックス・レヴォルの一座レ・ブルレスク・ド・パリのピアニスト兼役者であった。サシャ・ギトリによって『La Poison(毒) (1951)』、『Je l'ai ete trois fois(私はそこに3度いた) (1952)』、『パリもし語りなば Si Paris nous etait conte (1955)』といった映画で様々な端役の仕事を与えられ、また特に『La Vie d'un honnete homme(正直者の生涯)』 (1953)では「へつらってずる賢く悪巧みをしていそうな」[25]味のある召使いを演じた。この映画で彼の個性は洗練されていき、「しかめ面も付け髭も無く自然に」[25]そうした役どころを演じた。また、後に多くの映画でド・フュネスの夫人役を務めるクロード・ジェンサックと初めて共演した。1952年、ロベール・デリーとの出会いが二人を大きく変化させたにもかかわらず、彼の一座ブランキニョルに参加した。また評論誌『ブブート・エ・セレクション Bouboute et Selection』にデビューする。

1952年、父はフェドーの『La Puce a l'oreille(耳の中の蚤)』を演じた。・・・公演の終わりに彼は小さなヴェルネ劇場の舞台の上を走り回り、それがブブート・エ・セレクション誌のスケッチに載った。それから彼はメトロに乗り、浮浪者を演じるキャバレーに向かった[26]。--オリヴィエ・ド・フュネス Aknin 2005, p. 44

それから1953年に、ド・フュネスは『Ah ! les belles bacchantes(ああ!美しい口ひげ)』で主役を演じた[27]。この公演は大成功し2年に渡って公演され、彼の名を一躍有名にした[28]。喜劇に特化した一座に参加した経験から、彼の技術は磨かれていた。その翌年に掛けては、Jean Loubignac, やJean Drevilleの『バルテルミーの大虐殺 La Reine Margot(女王マルゴ)』といった最初期のカラー映画に出演した。同じ年、ジャン・ルビニャックの『Le Mouton a cinq pattes(5本脚の羊)』でフェルナンデルと共演し、またジル・グランディエの『Poisson d’avril(エイプリルフール)』でブールヴィルと初共演した。先に『Sans laisser d'adresse(書き残されなかった住所)』 (1951) および 『Agence matrimoniale(結婚紹介所)』 (1952)に端役で出演していたJean-Paul Le Chanois監督からは、『Papa, maman, la bonne et moi (パパ、ママ、メイドと僕)』 (1954) とその続編『Papa, maman, ma femme et moi (パパ、ママ、妻と僕)』 (1956)で準主役のM. Calomel役を与えられた。


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