私は1942年にマドレーヌ寺院界隈でピアニストをしていた彼と出会った。場末のビストロで私は彼とピアノの連弾をした。最後に私が一人で弾いている間、ド・フュネスはピアノの上によじ上って歌った[16]。--映画人ジョルジュ・ロートネルの回想
彼は『Pas de week-end pour notre amour(僕らの愛に週末は無い)』、『La Rue sans loi(無法地帯の通り)』、『サラサラと鳴る Frou-Frou』, 『大追跡 Le Corniaud』, 『大進撃 La Grande Vadrouille』, 『パリ大混戦 Le Grand Restaurant (大レストラン)』 そして 『オーケストラの男 L'Homme orchestre』 といったいくつもの映画の中で、当時のこのような仕事を演じている。
1943年にジャンヌ=オーギュスティーヌ・バルテレミー・ド・モーパッサン[17](2015年3月13日に101歳で死去[18]。作家のギ・ド・モーパッサンの家系の出身[18])と再婚する。2人はモーブージュ通り42番地の小さな二間に住む。1944年、次男のパトリックが、そして1949年には三男のオリヴィエが生まれた。オリヴィエはのちにその父の6本の映画制作に携わり、またOscarではキャストを演じた。
最初の舞台演劇教室の入学試験に合格した[19]。在籍期間はわずかしか無かったものの[20]、のちにMarc-Gilbert Sauvajon脚本の映画L'Amant de pailleでド・フュネスが出演するきっかけを作った俳優ダニエル・ジェランなど多くの仲間と知り合う。
驚くべき偶然だった。ある日私がメトロの先頭車両から降りると、次の車両にルネ・シモン演劇教室で知り合いだったダニエル・ジェランが乗り込むのを見かけた。電車の扉が閉まる瞬間、彼が私に叫んだ。「明日電話してくれよ。君にちょっと仕事を頼みたいんだ[19]。」--ルイ・ド・フュネス
ダニエル・ジェランも、仔細は異なるものの、このメトロのホームでの出会いを自伝に書いている[21]。
劇場での端役をこなす間、ド・フュネスはピアニストとしてレッスンや夜のパリのバーでの演奏で糊口を凌いでいた[22]。1945年、またもやルイが「私の幸運」とあだ名するダニエル・ジェランのおかげで[23]、Jean Stelliの映画『La Tentation de Barbizon(バルビゾンの誘惑)』でデビューする。脇役であるがキャバレー『天国』の門番として、彼は映画の中で最初のセリフを発する。閉じた入口に入ろうとする客(ピエール・ラルケイ)に向かって、「ふん、今日は酔っぱらってやがるな!」その後も様々な端役・脇役をこなしていき、時には Bernard de LatourのDu Guesclin (1948年)のように、バンドの指揮者、占い師、大家と、一つの映画の中で複数の役を演じたこともあった[24]。1949年、当時人気作家だったLuis Marianoの喜劇『Pas de week-end pour notre amour(僕らの愛に週末は無い)』で、準主役である男爵専属のピアニスト(主役はジュール・ベリー)を演じ、オペレッタの雰囲気をスクリーンに持ち込み、またクラシックやジャズのナンバーを演奏した[注釈 12]。 1950年、彼はマックス・レヴォルの一座レ・ブルレスク・ド・パリのピアニスト兼役者であった。サシャ・ギトリによって『La Poison(毒) (1951)』、『Je l'ai ete trois fois(私はそこに3度いた) (1952)』、『パリもし語りなば Si Paris nous etait conte (1955)』といった映画で様々な端役の仕事を与えられ、また特に『La Vie d'un honnete homme(正直者の生涯)』 (1953)では「へつらってずる賢く悪巧みをしていそうな」[25]味のある召使いを演じた。この映画で彼の個性は洗練されていき、「しかめ面も付け髭も無く自然に」[25]そうした役どころを演じた。また、後に多くの映画でド・フュネスの夫人役を務めるクロード・ジェンサックと初めて共演した。1952年、ロベール・デリーとの出会いが二人を大きく変化させたにもかかわらず、彼の一座ブランキニョルに参加した。また評論誌『ブブート・エ・セレクション Bouboute et Selection』にデビューする。 1952年、父はフェドーの『La Puce a l'oreille(耳の中の蚤)』を演じた。・・・公演の終わりに彼は小さなヴェルネ劇場の舞台の上を走り回り、それがブブート・エ・セレクション誌のスケッチに載った。それから彼はメトロに乗り、浮浪者を演じるキャバレーに向かった[26]。--オリヴィエ・ド・フュネス Aknin 2005, p. 44 それから1953年に、ド・フュネスは『Ah ! les belles bacchantes(ああ!美しい口ひげ)』で主役を演じた[27]。この公演は大成功し2年に渡って公演され、彼の名を一躍有名にした[28]。喜劇に特化した一座に参加した経験から、彼の技術は磨かれていた。その翌年に掛けては、Jean Loubignac, やJean Drevilleの『バルテルミーの大虐殺 La Reine Margot(女王マルゴ)』といった最初期のカラー映画に出演した。同じ年、ジャン・ルビニャックの『Le Mouton a cinq pattes(5本脚の羊)』でフェルナンデルと共演し、またジル・グランディエの『Poisson d’avril(エイプリルフール)』でブールヴィルと初共演した。先に『Sans laisser d'adresse(書き残されなかった住所)』 (1951) および 『Agence matrimoniale(結婚紹介所)』 (1952)に端役で出演していたJean-Paul Le Chanois監督からは、『Papa, maman, la bonne et moi (パパ、ママ、メイドと僕)』 (1954) とその続編『Papa, maman, ma femme et moi (パパ、ママ、妻と僕)』 (1956)で準主役のM. Calomel役を与えられた。
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