ルイス・I・カーン
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ソーク生物学研究所は、ポリオ・ワクチンの開発で有名な細菌学者のジョナス・ソーク博士がリチャーズ医学研究棟を見て感銘を受け、「芸術家のピカソを招いてもいいような研究所を」という彼の肝いりで依頼されたものである[11][12][13]

リチャーズでは縦に割れていた「サーブド・スペース」と「サーバント・スペース」の関係性が、ここでは設備的には上下2層に分かれ、さらには共同作業を行う実験室と明確に分けられる形で、居住性に配慮した個人研究用の個室を、中庭に面して左右対称に、45度の角度で重なり合いながら横に張り出させている。そしてその外観を、明るい砂色のコンクリートに良くマッチした窓枠のチーク材の生成りの色合いとのツートーンで際立たせつつ、印象的なファサードを形作ることに成功した[14]

この印象的な中庭は、そのデザイン処理に最後まで悩んだカーンが、友人の建築家ルイス・バラガンにアドバイスを求めたことによって実現したものである。相談を受け現地に立ったバラガンは即座に「ここには何も置くべきではない。ただのプラザになるべきだ。そうすればここは空へのファサードになるだろう」と言い、カーンもまたすぐにそのデザイン意図を理解したという[15][16][17][18][19][20]。カリフォルニアの明るい太陽の下、中庭の真ん中に穿たれた浅く細い水路の先に、広大な太平洋を望むランドスケープは、カーン建築のなかの嚆矢である[21]

以後、バングラデシュインドで国家的プロジェクトに携わり、ダッカバングラデシュ国会議事堂ではコンクリートと白大理石との組み合わせで、アーメダバードのインド経営大学ではレンガとの組み合わせで、資材と技術の払底した発展途上国にあっても十分にモダンでかつヴァナキュラーな(地方色豊かで風土的な)優れた建築を作り出せることを実証した[22]。しかしながらカーンの作品の中での白眉といえば、テキサス州フォートワースに建つキンベル美術館であろう[23]

カマボコ形のコンクリート・ヴォールトの屋根を戴いた細長いユニットがおよそ3×6の配置で並べられた建物は、実業家で熱心な美術収集家であったケイ・キンベル夫妻の私的コレクションの為に計画された。サイクロイド曲線のヴォールト屋根の頂部にうがたれたトップライトからの自然光は、開口率50%のアルミ製パンチングメタルの反射板で受けとめられ、銀色の間接光で満たされて光輝くコンクリート打放しの天井面を作り出す。その柔らかな光は確かに、カーンが目指した構造から導き出される光によって空間を規定するという彼の理想をこの地上に現出させている[24]

打放しコンクリートを建築デザインとして用いたのは、フランスオーギュスト・ペレが最初であるが、それをモダニズムの美学として発展させる取り組みは、日本が世界で最も早く、アントニン・レーモンドを経て、後に日本のお家芸と言われるまでになる[25]。カーンのコンクリート打ち放しによる柱梁表現も、丹下健三の初期三部作(広島ピースセンター・旧東京都庁・香川県庁舎)に影響を受けたのではないかとする向きもあるが[26]、その細部に至るまで緻密な表現は、構造エンジニアのオーギュスト・コマンダントの協力もあって、カーン独自の美学的完成度をみせている[27]

しかしながら、モダニズムの禁欲的な原則にのっとって、構造と素材が厳しく幾何学的形体として操作され、そのディテールの精度とプロポーションの確かさにもかかわらず、出来上がった時からもうすでにどこか廃墟の風情をたたえるカーンの建築は、しばしばアナクロニズム(時代錯誤)とも評される[28][29]。荘厳にして冷ややかな、神亡き機械時代の神殿を築いたかのようでもある[30]

カーンはまた、哲学的な建築論でも知られ、その言葉はしばしば深淵で神学的な響きを帯びた[8]。多くの弟子を育てあげており、日本人の建築家としては香山壽夫新居千秋らがいる。
作品

名称年都市州県国備考
ジェシー・オーザー夫妻邸
1940年 - 1942年エルキンス・パークペンシルベニア州 アメリカ合衆国
イエール大学アート・ギャラリー1951年 - 1953年ニューヘイブンコネチカット州 アメリカ合衆国


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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