ルイス・B・メイヤー
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また、この頃テレビという新しい娯楽が徐々に一般家庭に浸透しつつあったのも、映画産業にとって向かい風となった[5]

メトロ・ゴールドウィン・メイヤーの黄金時代に決定的な終止符を打ったのは、1948年に下された「パラマウント訴訟」の最高裁判決だった。同一の企業が映画の製作と興行を担当することを規制するこの判決によって、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーやパラマウント映画のような大手映画スタジオは、莫大な利潤を生み出してきた系列の映画館への独占的支配を一挙に失うことになる[6]。同時にこれまでスタジオに押さえ込まれてきたスター俳優や監督たちも、公然と待遇への不満を口にするようになった。このような逆境の中、メイヤーとメトロ・ゴールドウィン・メイヤーの上層部は、往年の勢いを取り戻すために人事面の刷新を図る。嘗てアーヴィング・タルバーグが就いたポストに脚本家ドア・シャーリーを迎えたメイヤーだが、やがてシャーリーと映画の製作方針を巡って対立。そして1951年に、メイヤーの旧態依然とした大作主義と独裁に嫌気が差していたLoew’s Inc.(メトロ・ゴールドウィン・メイヤーの親会社)の経営責任者ニコラス・シェンク[注 5]によって、メイヤーは27年間保持した最高権力者の地位から更迭されてしまう[2]
晩年のメイヤー

メトロ・ゴールドウィン・メイヤーを退社したメイヤーは、映画ビジネスから手を引き隠退生活に入ることになった。晩年のメイヤーは石油産業や不動産に投資することで、自らの資産を更に増加させた[4]。投資業の傍ら、メイヤーは以前にも増して精力的に政治活動に関わるようになった[注 6]。メイヤーは上院議員ジョセフ・マッカーシー赤狩りに積極的に協力、1952年共和党全国大会では中道路線を主張する大統領候補のドワイト・D・アイゼンハワーを「穏当すぎる」として非難した[2]

1956年7月頃よりメイヤーは体の不調を訴えるようになった。当初は単なる貧血だと診断されたが、後に白血病に罹患していることが判明し、同年9月にはカリフォルニア大学ロサンゼルス校の医療センターに入院することになる。その後輸血などの処置が継続して行われたものの、治療の甲斐なく1957年10月29日に73歳で死去した[4]。メイヤーの遺骸は、イーストロサンゼルスのユダヤ人墓地に埋葬された。死後、彼の遺言に従って娘エディスとその夫が一族から除名された。その理由とは、彼女の夫が進歩的な政治思想を抱いていたから、というものだった[2]
評価カナダのトロントにある名声の歩道に刻まれた、ルイス・B・メイヤーの星(2009年撮影)

長期間に渡ってハリウッドで指導的役割を果たし、その黄金時代を築き上げたことから、アメリカ映画史上で最も重要な人物の一人に位置づけられている。メイヤーが当時メトロ・ゴールドウィン・メイヤーで取った経営戦略は、積極的に同業他社に模倣されることになった。メイヤーは1927年に映画業界のイメージ改善と労働争議の解消を目的に設立された、映画芸術科学アカデミーの創立メンバーの一人である。晩年にはその映画産業に対する多大な功績を賞されて、1950年度のアカデミー名誉賞を受賞した。また、メイヤーはハリウッド名声の歩道に名前が刻まれている映画人の一人である。1999年には、『TIME』が選ぶ20世紀の100人にも選出された。

メイヤーの経営手腕とカリスマ性、映画業界への貢献は誰もが認めるところであるが、反面その人格面では評価が分かれがちな人物である。メイヤーの強引なやり方には、関係者たちからの批判も多かった[7]。様々な手練手管を用いて、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーお抱えのスター俳優たちの給料を低く抑えた逸話は、現在ハリウッドの伝説と化している。クラーク・ゲーブルが給料の値上げを直訴したときに、メイヤーは彼の妻にジョーン・クロフォードとの不倫を暴露すると脅迫、ゲーブルの給料は要求額の半分以下に抑えられてしまった。一方、アン・ラザフォードが母親に家を建てるために貯金をしたいと申し出たときには、涙を流してラザフォードを抱きしめ、給料の賃上げを認めたという。メイヤーの母親に対する敬慕の念は並々ならぬものがあり、ジョン・ギルバートが自分の母親を売春婦呼ばわりしたときには、激怒してギルバートを殴り飛ばしたとされる。映画プロデューサーであるアーヴィング・タルバーグを危険視し失脚に追い込んだものの、彼が早世したときには号泣して葬式にクチナシの花飾りを贈ったというエピソードも伝えられる[2]。以上の逸話が示唆するように、メイヤーの人格は極めて複雑なものであり、そのことが彼に対する毀誉褒貶の激しさの一因となっている。
主な受賞

アカデミー賞

1950年度 名誉賞



全米監督協会賞

1951年度 名誉生涯会員賞


エピソード

喧嘩っ早い性格で有名だった。
チャールズ・チャップリンがメイヤーを非難する声明を発表したとき、チャップリンと素手で殴り合いをしたという逸話が伝わっている[8]


傲慢な性格で知られるが、そんな彼を慕う俳優も多かった。ロバート・テイラーがメイヤーに給料の値上げを要求したとき、メイヤーは「一生懸命仕事をして老人を敬えば、やがて君の望むものは全て手に入るよ」と優しく諭して彼を抱きしめた。要求は却下されたものの、メイヤーの言葉に感動したテイラーは、「私は父親を見つけた」と言って涙を流して喜んだという[2]


私生活では競馬が趣味であった。メイヤーはロサンゼルス郊外に広大な厩舎を保有しており、そこからユアホストケルソブッシャーといった数多くの名馬が巣立っていった。後年メトロ・ゴールドウィン・メイヤーの財政状態が悪化したとき、ニューヨークの親会社の社長であるニコラス・スケンクは、メイヤーの競走馬への浪費を口実に彼から譲歩を引き出したとされる[9]

脚注
注釈^ メイヤーの誕生日や生誕地、帰化前の名前は資料によってまちまちである。1885年ウクライナの寒村で、エリエゼル(ラーザリ)・メイル(Элиэзер (Лазарь) Меир)として生まれたとする異説もある。1911年にアメリカ合衆国の市民権を取得したときに、愛国心の強いメイヤーは1885年7月4日(アメリカ独立記念日)を自身の誕生日として登録した(Parish p. 167)。
^ アンディ・ハーディ役で名声を得た、子役のミッキー・ルーニーに対する説教は有名である。メイヤーは女たらしのルーニーに、「お前はアンディー・ハーディなんだ!お前はアメリカ合衆国なんだ!お前は星条旗なんだ!お前はアメリカの象徴なんだ!行儀よくしなさい!」と叱り飛ばしたとされる(Schulberg)。
^ 「天才少年」(原語:The Boy Wonder)とは、アーヴィング・タルバーグの通称である。
^ 代表的な作品として、ミッキー・ルーニー主演の『アンディ・ハーディ』シリーズが挙げられる。
^ ハリウッドでは絶大な権力を誇ったメイヤーも、ニューヨークの本社で経営責任者として君臨するシェンクの存在を病的に恐れていたとされる(Parish p. 165)。
^ 自他共に認める熱狂的な愛国者だったメイヤーは、共和党の熱烈な支持者だった。合衆国第31代大統領のハーバート・フーヴァーに多大な援助をし、以後政界にも影響力を及ぼすようになった。1934年カリフォルニア州知事選挙では、民主党候補のアプトン・シンクレアを映画を用いたプロパガンダで攻撃し、落選に追い込んだ。

出典^ Canada’s Walk of Fame、“ ⇒2004 Inductee: Louis B. Mayer Archived 2011年11月6日, at the Wayback Machine.”(参照:2009年9月18日)


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