ルイス・B・メイヤー
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同年、その資金を元手にリチャード・A・ローランドと組み、映画会社メトロ・ピクチャーズ(Metro Pictures Corporation)をニューヨークに設立し、その副社長に就任した。1918年に、メトロ・ピクチャーズを離れたメイヤーは、自前の映画製作会社であるルイス・B・メイヤー・ピクチャーズ(Louis B. Mayer Pictures Corporation)を設立、西海岸のロサンゼルスに進出を果たした[3]。メイヤーの会社が最初に製作した劇場映画は、1918年に公開された『Virtuous Wives』というドラマ映画だった。

メイヤーにとって転機が訪れるのは、1924年のことである。この年に全米有数の劇場チェーンの所有主であるマーカス・ロウは、映画業界の再編成を画策。ロウの指揮の下で、メイヤーの退社後に、ロウの傘下に入っていたメトロ・ピクチャーズとサミュエル・ゴールドウィンの保有するゴールドウィン・ピクチャーズ(Goldwyn Pictures Corporation)、更にメイヤーが保有するルイス・B・メイヤー・ピクチャーズの三社が合併し、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーが誕生することになった[2]。この流れの中で、メイヤーは同社の映画製作部門の最高責任者に就任。企業の名目上のトップはロウであったものの、新生メトロ・ゴールドウィン・メイヤーの実質的な主導権を握ることになる。
ハリウッドの最高権力者ジミー・デュランテと談笑するメイヤー(1948年撮影)

メトロ・ゴールドウィン・メイヤーの副社長として、ロサンゼルスの映画スタジオの采配を任されたメイヤーは、次々とヒット作を市場に投入する。メイヤーは、スタジオお抱えの人気俳優たちの魅力を最大限に引き出すために映画の配役や脚本を決定、更に大規模な宣伝を行って彼らの興行的価値を高めることに尽力した。この仕事の中には、スターのイメージを崩さないようにするための、彼らの私生活の管理まで含まれていた[注 2]ロン・チェイニーグレタ・ガルボクラーク・ゲーブルスペンサー・トレイシージュディ・ガーランドなど、この時期にメイヤーが発掘し育て上げたスター俳優は枚挙に暇がない。

更にメイヤーにとって僥倖だったのは、当時メトロ・ゴールドウィン・メイヤーにプロデューサーのアーヴィング・タルバーグが在籍していたことである。タルバーグは映画製作に天才的な手腕を発揮し、スタジオの責任者として広報戦略を練るメイヤーを現場からサポートした。メイヤーとタルバーグの蜜月関係は、やがてタルバーグの才能と人望に嫉妬したメイヤーが彼の追い落としを図るまで続いた。1933年、持病のためにヨーロッパで治療を受けていたタルバーグに帰国後用意されたのは、以前の統括プロデューサーの地位ではなく、現場の部門プロデューサーの地位であった。失意のタルバーグは1936年に亡くなるが、メイヤーは嘗ての教え子であり政敵でもあった「天才少年」[注 3]の死を、誰よりも嘆き悲しんだと言う[2]

タルバーグ亡き後のメトロ・ゴールドウィン・メイヤーの舵取りは、文字通りメイヤーの双肩にのしかかることになった。メイヤーは現場の責任者も兼任することになるが、その際にとった戦略とは、これまでより続編物の製作に力を入れるというものだった[注 4]大恐慌が到来しアメリカ経済そのものが深刻な打撃を受けても、メイヤー率いるメトロ・ゴールドウィン・メイヤーは好調を維持し続ける。絶頂期のメイヤーはアメリカ合衆国で最も高給取りの男であり、その年収は100万ドルを超えていたとされる[3]
権力からの失墜

タルバーグの死や大恐慌という危機を無事乗り切ったメイヤーは、ハリウッド最大の映画スタジオの首脳として不動の地位を築き上げる。しかし第二次世界大戦が終結すると、その勢威にも翳りが見られるようになる。メトロ・ゴールドウィン・メイヤーが得意とする感傷的な家族ドラマや仰々しいロマンス映画に、観客が以前のような関心を払わなくなったからである[2]。また、この頃テレビという新しい娯楽が徐々に一般家庭に浸透しつつあったのも、映画産業にとって向かい風となった[5]

メトロ・ゴールドウィン・メイヤーの黄金時代に決定的な終止符を打ったのは、1948年に下された「パラマウント訴訟」の最高裁判決だった。同一の企業が映画の製作と興行を担当することを規制するこの判決によって、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーやパラマウント映画のような大手映画スタジオは、莫大な利潤を生み出してきた系列の映画館への独占的支配を一挙に失うことになる[6]


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