ルイス・リーキー
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リーキー夫妻がヴィクトリア湖にいる間、キクユ族はヨーロッパ移民と対立を深めていた。移民のほうが優勢で、彼らは「白い」アフリカの「白人の」政府を要求していた。100万人のキクユ族は3万人の移民に悩まされていた。1949年にキクユ族はマウマウ団を作り、移民と体制派のキクユ族を攻撃した。リーキーは植民地政府のフィリップ・ミッチェルに警告したが無視された。この出来事の間、リーキーの命は危険にさらされ、ピストルを持ち歩くようになり、ケニヤ政府は24時間の警備の元に彼を置いた。1952年に政府がジョモ・ケニヤッタを逮捕するとリーキーは裁判で通訳をつとめた。しかし被告への偏見に基づく誤訳が指摘されて通訳を退いた。政府はイギリス軍を呼び込み2万人のキクユ義勇兵を組織した。リーキーは移民に味方した。スポークスマンと情報将校となり、ゲリラの発見を助けた。一方で、著作と執筆活動、会談を通してキクユ族を擁護した。多民族政府、農地改革、キクユ族の収入の底上げやさまざまな改革を提案し、最終的にそのほとんどが採用された。この提案の後で多くのキクユ人が教育キャンプに入れられ、新しい村に移住した。反乱は1956年まで続き、非常事態は1960年まで継続された。1963年にケニヤッタを首相としてケニヤは独立した。

1951年にリーキー夫妻はオルドヴァイで道具を発見した。1952年にはより広範な発掘が行われ、オルドヴァイ屠殺場(動物が追い込まれて大量に殺された古代の沼)と呼んだ遺跡が発見された。彼らは1953年に一度発掘を止め、1955年から再び、ジーン・ブラウンとともに掘り始めた。1959年にメアリーはジンジャントロプスを発見した。問題はそれがロバート・ブルームによって発見されたパラントロプスより前か後か、人間の系統に連なるかどうかであった。1960年に地球物理学者ジャック・エバンデンとガーニス・カーティスはこれを175万年前の物と判断した。これは想像より遥かに古く、世界中が驚いた。科学者はアフリカに群がった。リーキーとレックの正当性は完全に証明されたが、レックはすでに1937年に死去しておりそれを知ることはなかった。リーキーはまた、ダーウィンが正しかったことも証明した。

リーキーは博物館のために週末以外に離れることができず、1960年にオルドヴァイの発掘責任者にメアリーを任命した。メアリーは19歳の息子ジョナサンとともにキャンプを設置した。メアリーは自分自身のスタッフをそろえ、リーキーとはラジオで連絡を取り合った。彼は週末には高速でナイロビとオルドヴァイの間の500kmを行き来した。まだ10代前半だった他の息子リチャードとフィリップは長期休暇の時だけ発掘場を訪れた。リーキーは息子たちとイーブン・ドュボアに、生のネズミを食べて便を古人類の糞石と比較しようと誘った。彼はドュボアに「愛する息子よ、あなたを有名にさせてください」と言ったが、ドュボアと息子たちはネズミを食べることに異議を唱えた。夕食客は頻繁に訪れ、長いときには数週間滞在した。客の他に彼らは20人のアフリカ人のスタッフとダルメシアン、ハイラックス、サル、カコミスル、アフリカワシミミズク、熱帯魚、ガラガラヘビ、パイソンに囲まれていた。

リーキーが古人類学から手を引く前に、ジョナサンはちょっとした名声を獲得した。彼は自分自身の採掘場所を見つけ、アウストラロピテクスの矢状突起のない二つの頭骨片を発見した。メアリーはそれをブルームとロビンソンのテラントロプスと結び付けた。問題はジンジャントロプスとの時代関係であった。手紙で写真を受け取ったル・グロ・クラークはピルトダウン人との関係をほのめかした。リーキーはすぐに返信し、いくらかのやりとりの後でクラークは謝罪した。1960年にリーキーと息子のフィリップ、レイ・ピッカーリングはシェランマンと彼らが呼んだ、オルドヴァイの道具と関連した新たな化石を発見した。その後それはホモ・エレクトゥスに含まれたが、パラントロプスと同時代の物であった。長い間、リーキーはエレクトゥスが道具を使用していたが、アウストラロピテクスはそうではないと考えていた(現在ではどちらも道具を使っていたと考えられている)。1961年にリーキーはナショナルジオグラフィックから補助金と給与を受け取り、コリンドン博物館の役職を部下に譲った。そして敷地内に先史時代と古生物に関するセンターを作り、自分のコレクションを移して責任者に就任した。彼はまた、ヴィクトリア湖の近くで新たな発掘地を見つけた。そしてまもなく、ヘゼロンはケニヤンピテクスを発見した。リーキーはちょうど滞在していたG.G.シンプソンとともにその発見を祝った。

1962年にオルドヴァイの、ホモ・ハビリスの最初の歯が発見された採掘場を訪れた。フィリップ・トバイアスはそれとジョナサンの発見をレイモンド・ダートのホモ・ハビリスであると確認した。そしてそれはホモ属アウストラロピテクス属の中間種と見なされた。
リーキーの天使

リーキーのもっとも大きな遺産の一つは霊長類を自然の生息地で観察するフィールドワーク研究を促したことである。彼は人類の進化の謎を解く近道であると考えていた。リーキーは個人的に三人の女性、ジェーン・グドールダイアン・フォッシー、ビルーテ・ガルディカスを選んだ。彼女らはそれぞれチンパンジーゴリラオランウータン研究の重要な研究者となり、「リーキーの天使」とあだ名された。

ジョモ・ケニヤッタが首相となってケニヤは1963年12月12日に独立した。すでに相当な数の移民が出国していた。ケニヤッタは白人に対して懐柔的な立場を取った。いくつかの追放があったが、報復はなかった。リーキーはケニヤの古人類学の将来を憂いた。最後の植民地知事の仲介で、ケニヤッタとリーキーの会談が行われた。会議は友好的なうちに終わり、研究は保証された。最後の日々、リーキーはアメリカとイギリスで著名な講演家となった。関節炎で体が不自由になり、ながいあいだ発掘の作業から離れていた。彼の役目は資金を集め、家族を指揮することだった。それからケニヤで化石研究を行おうとしている研究者の手助けをした。彼の許可無しで発掘許可は下りず、博物館のコレクションに触れることもできなかった。1963年にリーキーはルース・デ・エッテがカリフォルニアモハーヴェ砂漠で研究を始めるのを手伝った。リーキーはネイティブアメリカンの言語の分布と進化から逆算し、人類がアメリカに到達したのは二、三千年前であると仮定した。

1964年、リーキーは、東アフリカにおける古人類学研究の功績に対して、王立地理学会から金メダル(創立者メダル)を贈られた[1]
対立

メアリーはリーキーと幻想的な意見を共有しなかった。メアリーはリーキーに敬意を払わなくなり、1963年頃には役立たずと見なすようになっていた。彼女は専門家として、ルースが発見したカリコ人に関する議論から反対を始めた。メアリーはナショナルジオグラフィック協会を説得し、カリコ人に関する出版を止めさせ、資金提供を打ち切らせた。しかしリーキーは他の手段を見つけた。1968年にアランとヘレン・オブライエンや何人かの著名なカリフォルニア市民がリーキー財団を立ち上げた。それ以来リーキーは資金の調達のために彼らと働いた。メアリーの反対は古人類学のコミュニティの大きな分裂に繋がった。例えば、1968年にリーキーは南アフリカ共和国アパルトヘイトを主な理由としてヨハネスブルクのヴィトヴァーテルスラント大学からの名誉博士号を拒否した。メアリーはそれを受け入れた。二人はまだお互いを気に掛けていたが、専門家として異なる道を歩み始めた。


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