ルイス・ガルシア・ベルランガ
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国立映画研究所時代

スペイン帰国後には地元のバレンシアで大学生協の映画クラブで中心人物のひとりとなり、雑誌やラジオや雑誌などで映画評論を行った[12][13]。1947年にはマドリードに設立されたばかりの国立映画研究所(IIEC)に1期生として入学し[14]、研究所では歴史物のパロディ映画を制作し[12]、1951年にフアン・アントニオ・バルデムと共同で脚本・監督を務めた『あの幸せなカップル』が初長編作品となった[12]。この作品にはフェルナンド・フェルナン・ゴメスやエルビラ・キンティーリャが出演しており[1]、コメディを基盤に据えながらも社会批判を盛り込んでいる[12][15]。映画を「娯楽の王様」と割り切って制作する古い時代の監督とは異なり、映画を新たな芸術の表現手段として捉えたベルランガとバルデムは、1950年代以後に登場する新しい映画人の代表格とされている[16]
国際的な評価の高まり

1952年の『ようこそ、マーシャルさん!』は、スペイン映画が国際舞台で評価を受けるきっかけを作った映画とされる[5]。1953年のカンヌ国際映画祭でユーモア映画・脚本賞を受賞し、ヴェネツィア国際映画祭では審査委員長を務めていたハンガリー系アメリカ人のエドワード・G・ロビンソンが作中でのアメリカの扱いに憤慨した[1]。この映画はスペインとマーシャル・プランとの関係を描いた社会的風刺性の強い作品だったが、検閲官は「スペイン文化とスペイン民族の優越性を表した夢である」と解釈し、ベルランガ自身は「なぜ検閲を通ったのかわからない。(中略)検閲の人間が脚本にある風刺を理解できなかったのだろう」と語っている[17]

フランコは『ようこそ、マーシャルさん!』の検閲通過後にこの作品の本質に気付いて激怒し、以後はベルランガ作品が検閲を通過することは一切なかったものの、国際的評価が高かったベルランガの作品を上映しないことによる国外の視線を気にして、国民が祝祭に気を取られる聖週間に形ばかりのロードショーが行われた[18]。このようにフランコ政権からの嫌がらせを受けながら、『ようこそ、マーシャルさん!』はスペイン史上もっとも高い収益を挙げた映画となった[18]
フランコ体制下

1953年にはスペイン映画の現状について様々な立場から討論するサラマンカ国民映画会議に参加し、検閲や映画批評のあり方、法制度や労働契約などが話し合われている[19]。この映画会議にはベルランガやバルデムの他に、俳優・監督のフェルナン・ゴメス、小説家のフェルナンド・ビスカイーノ・カサス(スペイン語版)、言語学者のフェルナンド・ラサロ・カレテール(スペイン語版)なども参加した[20]。これを機にスペイン各地に映画クラブが誕生し、サラマンカ国民映画会議はスペイン映画史における歴史的事件のひとつとなっている[19]。1954年にはマリーア・ヘスース・マンリケ・デ・アラゴンと結婚し、音楽も蝋燭も絨毯もない安価な結婚式の様子は1963年の作品『死刑執行人』で再現されている[19]。1957年の『奇跡の木曜日』は検閲を受けて修正を余儀なくされた上に、何年もの間スペインでは上映することができなかった[1]

1959年にはソモサウゴに転居し、父親の遺産350万ペセタで新居を購入した[19]。1959年には『電車売ります』で初めて脚本家のラファエル・アスコナとコンビを組み[1]、協同2作目の『プラシド』ではアカデミー外国語映画賞の5本のノミネート作品に選ばれたが、最終的にはスウェーデンのイングマール・ベルイマン監督の『鏡の中にある如く』が外国語映画賞を受賞した[21]


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