ルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ
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ルーラが生まれて間もなく、父親は沿岸の都市サントスに港湾荷役労働者として出稼ぎに出る。母親と8人の子供が父親の元を訪れたのは1952年のことであった。彼らはトラックの荷台に13日間揺られ父親の元へいった。彼らの生活環境はペルナンブーコに住んでいたときよりも向上したが、相変わらず苦しいものであった。

1956年に一家はサンパウロに移り住む。ルーラは母親と7人の兄弟と共にパブの裏の小さな部屋で暮らした。ルーラは公的教育をわずかながら受けたが、四年生で学校を離れた。彼は12歳で靴磨きとして働き始める。短期間日本人の洗濯屋で働く。14歳になると製鉄所で初めて正式の工員として働く。働きながら小学校の課程を修了した。

19歳の時、プレス工として勤務していた自動車工場で起きた事故で、指を失う。その頃から彼は労働組合に加入し、重要な役職に就くこととなる。当時のブラジルは軍事独裁政権下にあり労働組合を強力に抑圧した反動から、ルーラの政治観は大きく左傾化することとなった。

1969年、マリア・ジ・ルールジス(Maria de Lourdes)と結婚。しかしマリアは出産中に子供とともに死亡する。1974年にマリーザと再婚し、その後三児をもうける。同年、ミリアン・コルデイロ(Miriam Cordeiro)との間にも婚姻外の女児をもうける。
労働組合時代

1975年、ルーラはサンパウロ州サン・ベルナルド・ド・カンポ(Sao Bernardo do Campo)およびジアデーマ(Diadema)の鉄鋼労働者組合の長(president)に任命される。1978年にも再選され、その任期中に彼は軍事政権時代長きにわたって行われてこなかった、大規模なストライキを含む主要な組合行動を組織する。1980年、軍事政権下で冶金労働者のストライキを組織、裁判所はストライキを国家治安維持法違反(当時存在した法律)と判断した。当時はどんなストライキでも国家の安全を脅かすものとして不法と判断されていた。ルーラはストの首謀者として特高(DOPS、ドップス、当時存在した特殊警察組織)により逮捕、投獄された。地方軍事法廷は3年6ヶ月の懲役を言い渡したが、高等軍事法廷はこれを棄却した。
政治家としてのキャリア

1980年2月10日、ルーラを含む学者、労働組合リーダー、知識人のグループが労働者党(Partido dos Trabalhadores, PT)を発足させる。独裁政権のただ中において、進歩的な理念を掲げた左翼政党であった。1982年、ルーラは自身初の選挙であるサンパウロ州知事選にルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァの名で臨む。敗れはしたものの、彼の労働者党は存在をつなぎ止めるのに十分な議席を確保した。

1984年、労働者党およびルーラは民衆キャンペーン"Diretas Ja"(ジレータス・ジャー)に参加した。このキャンペーンは、次期大統領選挙における直接投票を要求するという趣旨のものであった。このキャンペーンの直接の結果として、民衆たちによる何年もの戦いの後、ついに1989年にいたって29年ぶりの直接選挙による大統領選挙が実現したのである。ルーラはこの大統領選挙に労働者党の候補として出馬したが、決選投票で国家再建党のフェルナンド・コロール・デ・メロに僅差で敗北した。

1992年、ルーラは民間ファンドに関わる数々のスキャンダルについて時の大統領コロールを弾劾するキャンペーンを張った。やがてコロールの弾劾裁判が行われ、コロールは辞任に追い込まれた。

その後ルーラは1994年1998年の大統領選挙に出馬したが、いずれもブラジル社会民主党(Partido da Social Democracia Brasileira, PSDB)のフェルナンド・エンリケ・カルドーゾに敗れている。
大統領時代モザンビーク訪問時(2003年11月)

2002年10月27日、ルーラは社会民主党の候補ジョゼ・セーハ(Jose Serra)を破って大統領に選出される。投票率は61%、得票数は5240万票にも達し、ブラジル民主主義史上最大の得票数であった。

2003年の元日より同職に就任する。宣誓式において、ルーラは涙ぐみながら次のように宣言した。

E eu, que durante tantas vezes fui acusado de nao ter um diploma superior, ganho o meu primeiro diploma, o diploma de presidente da Republica do meu pais.

(訳:大学の学位がないと何度も非難されてきたこの私が、生まれて初めて免状を手にします。それがわが国の大統領という称号です。)

これによってルーラは、国家の最重要職を務めるのには致命的とされてきた公教育経験の不足を非難する幾多の攻撃に応える形となった。労働者党の支持者たちは彼の明晰な知性を引き合いに出し、かような非難を重く捉えることはなかった。

2006年の大統領選挙では、所属する労働者党のスキャンダルが相次いだことで1回目の投票で過半数が得られず、決選投票にもつれ込んだが、10月29日に行われた決選投票では、60%以上の得票率を獲得して大統領再選を果たす。

大統領二期目も高い支持率を維持したが、憲法規定により三選は禁止されているため、ルーラは2011年1月1日の任期満了をもって退任した。退任時の支持率は90%近くであった[25]。後継の大統領候補には官房長官を務めたジルマ・ルセフ(ジウマ・ルセッフィと発音)を指名し[26]、好調な経済を背景にルセフが後任の大統領に当選した。
大統領退任後

石油会社ペトロブラスから不正な資金がルーラに渡った疑惑(オペレーション・カー・ウォッシュ)が持ち上がり、2016年3月4日に警察によって身柄を拘束された[27]。これに対してルセフ大統領はルーラを官房長官として入閣させることで捜査や起訴に最高裁判所の承認が必要となる措置をとった[28]。だがのちに最高裁は進行途中の捜査を理由に入閣を阻止した[29]

2017年7月12日、パラナ州の連邦裁判所はルーラに対し汚職とマネーロンダリングの罪などで禁固9年6カ月の有罪判決を下し、このほかにも司法妨害など4件が持ち上げられた[30]。しかし2019年7月に調査報道機関ザ・インターセプトが公開した会話記録が裁判を担当した連邦裁判官セルジオ・モロが判決前に検察官Lava Jatoに戦略的アドバイスを提供し、捜査の手段に対する提案をしていたことが明らかになった[31]

2017年8月1日、ブラジル連邦検察は収賄とマネーロンダリングの両罪でルーラを再び起訴した。ペトロブラスの工事を受注した大手ゼネコンのオデブレヒトとOASから2010?14年にかけ、ルーラが実質的に所有していた別荘リフォーム代を肩代わりしてもらったとされていた[32]。しかし明らかになった会話記録によると主検察官Lava Jatoがまず本当に別荘の持ち主がルラなのかまた、第1に国営石油会社ペトロブラスが関与していたのか疑問に感じていた。だが判決を選挙前にくだせるよう捜査を焦った[33]

2018年1月24日、ポルト・アレグレの連邦裁判所はルーラに対し汚職とマネーロンダリングの罪などで禁錮12年と1ヶ月の控訴審判決を下し、その後ルーラは収監された[34]。ルーラは10月の大統領選挙への立候補を表明していたが、控訴審で有罪判決を受けた者の選挙立候補を禁じる法律の規定により不可能となった[35]。同年8月、大統領選の立候補を届け出た[36]。その後労働党は候補者を差し替えた[37]

2018年9月28日に連邦最高裁がブラジル最大の新聞社にFolha de Sao Pauloがルーラのインタビューする要望を許可した。それを聞いた連邦検察官たちはそくプライベートのテレグラムグループチャットを開設しインタビューを阻止する陰謀を立て始めた。何時間もかけてどのように阻止または労働者党候補にできるだけ優位な影響を与えない方法を探った。事件を担当した1人Laura Tesslerはチャット内で, 「冗談じゃないの」「選挙直前に記者会見を行ったらHaddad(労働者党候補)が明らかに有利になってしまう。」など堂々とやり取りをしていた[38]。2019年4月23日、ブラジル連邦高等裁判所はルラに対し禁錮約8年11月に減刑する上告審判決を下した[39]

2019年7月、調査報道機関ザ・インターセプトが入手した会話記録によるとオバマ政権司法省の援助の下、捜査を手がけた連邦検察官Lava Jatoと判決を下した裁判官セルジオ・モロの間で判決以前からルラ元大統領が2018年大統領選への立候補するのを阻止するという政治的な企てをしていたことが明らかになった[40][41][42][43][44]


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