現在ルイジアナ州の多くの地名、例えばアチャファライア、ナケテシュ、カドー、ホウマ、タンジパホア、アボイルは、様々なインディアン言語で使われていた単語の音訳である。
ヨーロッパ人による探検と植民地化ルイジアナ地域図
1528年にスペインのパンフィロ・デ・ナルバエスが率いた探検隊がミシシッピ川河口に到達した。1542年にはエルナンド・デ・ソトのスペイン探検隊が、ルイジアナの北部と西部を通り(カド族やトゥニカ族と遭遇した)、その後の1543年にはミシシッピ川を下ってメキシコ湾に達していた。しかしスペインはその後長い間この地域を放置したままだった。17世紀後半、フランス人とフランス系カナダ人の遠征隊が地域支配と宗教及び交易の目的を持ってミシシッピ川とメキシコ湾岸に拠点を築いた。
1682年、フランス領カナダから南下したフランス人ロベール=カブリエ・ド・ラ・サールがこの地をルイ14世にちなんでルイジアナと命名した。1699年、カナダから来たフランス軍人ピエール・ル・モワン・ディベールヴィルが、最初の恒久的開拓地であるモーレパ砦を今日のミシシッピ州ビロクシ近くのオーシャンスプリングスに設立した。この時までに、ミシシッピ川河口にもラ・バリーズ(フランス語で航路目標の意)という小さな砦を建設していた。1721年には川を航行する船を導くために、木造の高さ62フィート (19 m) の灯台のような構造物を建設した。フランス領ルイジアナはミシシッピ川流域からカナダに至る広大な領域であるが、実際にはいくつかの交易拠点の網の目によって構成されていた。フランスの開拓地には2つの目的があった。すなわちスペイン領テキサスにおけるスペインとの交易を行うことと、ルイジアナへのスペインの進出を阻止することだった。オールド・サンアントニオ道路(スペイン語でエル・カミノ・レアル・デ・ロス・テハス、「テキサスの王道」)の北端にできた開拓地のナケテシュはすぐに河港および街道の交わる町として栄え、川沿いに広大な綿花王国が生まれた。農園主は大型のプランテーションを造り、成長する町には瀟洒な家を建設した。これはニューオーリンズなど他の町でも繰り返された。フランス系アカディア人は、ルイジアナ州南部の特にアチャファライア盆地など湿地に入植し、ケイジャンと呼ばれるようになった
ルイジアナのフランス開拓地からさらなる探検が行われ、ミシシッピ川やその主要支流沿いに、ルイジアナから北に、今日のセントルイス周辺のイリノイ・カントリーと呼ばれた地域にまで前身基地ができた。
当初はアラバマ州モービルとミシシッピ州ビロクシが植民地の首都として機能していた。フランスは交易面と軍事面でミシシッピ川の重要性を再認識し、1722年、フランス領ルイジアナの首府をニューオーリンズ市(フランス語でヌーヴェル・オルレアン、つまり新オルレアン)に移した。この時から約80年間、ニューオーリンズからフランスとスペインが交互に植民地帝国の支配を行った。1720年、ドイツ人移民が、今日ジャーマン・コーストと呼ばれるミシシッピ川沿いの地域に入植した。
北米ではフレンチ・インディアン戦争と呼ばれる七年戦争の結果、フランスはカナダ植民地と(ニューオリンズ付近を除く)ミシシッピ川以東の地をイギリスに割譲し、残りのニューオーリンズ市及びミシシッピ川以西も1762年のフォンテーヌブロー条約でスペインに譲渡された。なおカナダ東部沿海アカディア植民地(現ノヴァスコシア州、ニューブランズウィック州とプリンスエドワードアイランド州)のフランス系住民は、1765年に英国王に対する忠誠表明を拒んで強制追放され、ルイジアナ南西部の現在アケイディアナと呼ばれる地域に大挙して移住し、ルイジアナのフランス系人口を飛躍的に増大させた。これらアカディア人の子孫はケイジャンと呼ばれている。スペインはカトリック教徒の移民を得ようとしていたので、アカディアからの移民を歓迎した。スペイン領カナリア諸島からもイスレニョと呼ばれた島人が1778年から1783年の間に移住してきた。
スペインを支配したナポレオンは1800年のサンイルデフォンソ条約で、ルイジアナをスペインから取り戻したが、これはその後2年間秘密にされていた。1803年、ナポレオンは財政上の必要性などからアメリカ合衆国に売却した。ルイジアナは1762年から1800年までスペイン領だったが、この間行政官はスペイン人であったにもかかわらず新規のスペイン人入植者はほとんどなく、フランス系社会が存続した。つまりルイジアナ州はフランス系植民社会としての歴史を100年以上もっていたことになる。 1709年、フランスの資本家アントワヌ・クロザーが、メキシコ湾からイリノイまで広がるフランス領ルイジアナの商業独占権を獲得した。イギリスの歴史家ヒュー・トーマスは「この利権で毎年アフリカから黒人という積荷を運んで来ることが可能になった」と記した[12]。 1803年にフランスがルイジアナをアメリカ合衆国に売却すると、隣接するミシシッピ州に黒人奴隷を連れてくるのと同じくらい容易にルイジアナにも連れて来られるようになった。ただし、当時それは違法だった[13]。19世紀初めのルイジアナの砂糖の生産量は少なく、比較的少数の奴隷がその生産に従事していたが、プランテーション所有者が奴隷を購入して無給で働かせたので、間もなく一大生産地になった。奴隷はアフリカからサウスカロライナ州に連れてこられ、その後にルイジアナへと売買された。アメリカ合衆国の新しい領土では奴隷制度を違法とする連邦法があり[13]、下院議員ジェイムズ・ヒルハウスや論客のトマス・ペインがこの法を強制するよう要求したが、奴隷は少ないコストで大きな利益を生む資源だったので、ルイジアナに広まっていった。最後のスペイン知事は、「ルイジアナで奴隷制なしにやっていくのは事実上不可能であり」、奴隷を使うことで「繁栄と富に向かって大きな一歩を踏み出した」と記していた[13]。自由黒人女性と混血の娘、18世紀のコラージュ、ニューオーリンズ ルイジアナ州初代知事のウィリアム・C・C・クレイボーンは、白人の自由労働者はここの不健康な気候では働かないので、奴隷の強制労働が必要だと語った[14]。ヒュー・トーマスは、クレイボーンは人身売買を廃止する責務を負っていたにもかかわらずそれを実行することができなかったと記した。 フランスのルイジアナ全権公使ピエール・クレマン・ド・ローサーは「サン=ドマングがアンティル諸島の植民地の中で、その精神性と慣習が最もルイジアナに影響を与えたと記した(1718年)。 ルイジアナとその母体になったカリブ海の植民地は18世紀に親密な関係を築き、海洋貿易、資本と情報の交換、植民者の移住が盛んだった。その始まりからハイチ人はルイジアナの政治、市民、宗教、文化に大きな影響を与えた。植民地の役人は、島での反奴隷制度陰謀や蜂起に反応して、1763年、サン=ドマングの奴隷の入国を禁じた。サン=ドマングの反乱はアメリカ独立戦争とフランス革命の時代を通じて、ルイジアナの奴隷貿易と移民政策に影響を与え続けた。 1763年から1800年までルイジアナを統治したスペイン人も、これら2つの民主闘争を怖れた。治安攪乱と見なすものを抑圧し、その植民地を民主革命の広がりから孤立させるような無益な試みにおける破壊工作を禁じた。1790年5月、国王令によって、奴隷であろうと自由人であろうと西インド諸島からの黒人の入国を禁じた。その1年後、サン=ドマングで世界史の中でも最初の奴隷による革命が成功し、ハイチの建国につながった[15]。 サン=ドマングの革命で、様々な人種の人々が大量に植民地を脱出した。フランス人は奴隷を連れて逃げた。自身が奴隷所有者でもあった自由有色人種も逃亡した。さらに1793年には主要都市であるカプ=フランセ(現在のカパイシャン)の3分の2を焼き尽くす大火が発生し、1万人近い人々が永久に島を離れた。革命に続く時代には、外国の侵略や内乱があり、さらに多くの人々が逃亡した。多くの者は東のサントドミンゴ(現在のドミニカ共和国)、あるいはカリブ海の近くの島に移動した。白人であれ黒人であれ多くの人々は北アメリカの、特にニューヨーク、ボルティモア、フィラデルフィア、ノーフォーク、チャールストン、サバンナ、あるいはスペイン領フロリダに移動した。
奴隷制度の拡大
ハイチ移民とその影響