ルイジアナ州
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1803年、サン=ドマングに対する遠征の失敗が財政状態を悪化させ、軍事力を希薄にしたため、後に皇帝になったナポレオン・ボナパルトがアメリカ合衆国にルイジアナを売却した後、島で起こった事件の影響がより大きくルイジアナに影を落とすようになった[17]
アメリカ合衆国によるルイジアナ買収詳細は「ルイジアナ買収」を参照

1783年、アメリカ合衆国がイギリスからの独立を勝ち取ったとき、アメリカ合衆国の懸案事項の1つはヨーロッパの強国がその西側国境に接していることであり、ミシシッピ川に無制限に渡航できるようにする必要性だった。アメリカ人開拓者が西に進むにつれて、アパラチア山脈が東に品物を運ぶときの障害になることが分かってきた。商品を運ぶ最も容易な方法は、平底船オハイオ川からミシシッピ川をニューオーリンズ港まで運び、そこから大洋航行可能な船に積み替えることだった。このルートの問題点は、ナチェズより下流のミシシッピ川は両岸ともにスペインが所有していることだった。ルイジアナにおけるナポレオンの野望は、カリブ海の砂糖貿易を中心にして新しい帝国を造ることだった。1800年のアミアンの和約により、イギリスがフランスにマルティニーク島とグアドループ島の所有権を返還した。ナポレオンはルイジアナをこれら砂糖の島にとっての中継地点、またアメリカ開拓地に対する緩衝地帯と見なしていた。1801年10月、ナポレオンは重要なサントドミンゴ島を征服して奴隷制度を再導入するために大規模な軍隊を派遣した。サン=ドマングでは奴隷革命の後の1792年から1793年に奴隷制度が廃止されていた。またフランス植民地では1794年に法と憲法で奴隷制度を廃止していた。

ナポレオンの義弟ルクレールが指揮したフランス軍が、サントドミンゴ市民で構成され奴隷制度再導入に反対する軍隊に敗れたとき、ナポレオンはルイジアナを売却することに決めた。1800年のルイジアナ地図

第3代アメリカ合衆国大統領トーマス・ジェファーソンは、アメリカにフランスの植民地を再度樹立しようというナポレオンの計画に悩まされていた。ナポレオンがニューオーリンズを所有していれば、アメリカは通商に不可欠なミシシッピ川の出口をいつでも抑えられてしまうからである。ジェファーソンは、駐フランス全権公使のロバート・リビングストンにミシシッピ川東岸のニューオーリンズ市を購入し、アメリカの交易のためにミシシッピ川を自由に航行できるようにする交渉を行わせた。リビングストンは200万ドルまで支払う権限を与えられた。

スペインからフランスへのルイジアナ返還は公式には終わっておらず、スペインとのナポレオンの取引は、フロンティアでは秘密が保たれていなかった。しかし、1802年10月18日、ルイジアナの行政長官代行フアン・ベンチュラ・モラレスが、アメリカ合衆国からの全ての貨物についてニューオーリンズでの預託品の権利を取り消すというスペインの意図を公にした。この重要な港の閉鎖はアメリカ合衆国を怒らせ驚愕させた。西部での交易が事実上封鎖された。預託品権利の取り消しは、アメリカ人が法を濫用したこと、特に密貿易によって促進されたのであり、当時信じられたようにフランスの陰謀ではなかったというのが、歴史家の解釈である。ジェファーソン大統領はフランスとの戦争を要求する世論を無視し、ジェームズ・モンローをナポレオンへの特使として派遣し、ニューオーリンズ獲得を支援するように仕向けた。ジェファーソンは買収額の上限を1,000万ドルに上げることも認めた。

しかし1803年4月11日、フランスの外務大臣タレイランが、ニューオーリンズとその周辺地域のみならず、フランス領ルイジアナ全体の譲渡についてアメリカ合衆国が幾ら払う用意があるかを尋ねてきて、リビングストンを驚かせた。モンローとリビングストンは、ナポレオンが何時でもその申し出を撤回する可能性があること、ジェファーソン大統領の承認を得るためには数か月掛かる可能性があることで意見の一致を見たので、即座に交渉を開始すると決断した。4月30日、総面積828,000平方マイル (2,145,000 km2) のルイジアナ全土を、6,000万フラン(約1,500万米ドル)で購入する契約を行った。支払額の一部はフランスが既にアメリカ合衆国から借りていた負債で相殺されることとした。支払いはアメリカ合衆国の公債で行われ、ナポレオンはそれを額面価格でオランダのホープ・アンド・カンパニーに、また100ドルにつき87.5ドルの割引価格で、イギリスのベアリングス銀行に売却した。最終的にフランスがルイジアナの代償として受け取ったのは8,831,250米ドルに過ぎなかった。イギリスの銀行家アレクサンダー・ベアリングパリでマルボワと会合し、アメリカ合衆国に行って公債を回収してイギリスに運び、現金にしてフランスに渡した。ナポレオンはこの金でイギリスに対する戦争を始めた。

ルイジアナ買収の報せがアメリカ合衆国に届くと、ジェファーソンは驚かされた。ニューオーリンズの買収に1,000万ドル遣うことを認めていたが、国土の広さを倍にするような領土を1,500万米ドルで購入するという条約が出来上がっていたからだった。ジェファーソンの政敵である連邦党は、ルイジアナ領土が価値の無いものであり、合衆国憲法では上院の承認無しに新しい領土を獲得したり条約の交渉をしたりすることは許されないと主張した。連邦党を悩ませていた真実のところは、ルイジアナ領土から新しい州ができることは避けられず、その場合には議会における西部と南部の勢力を強め、ニューイングランドを基盤にする連邦党の国政の場での影響力を削ぐことになるというものだった。ジェファーソン大統領は西方への拡大を熱心に支持しており、この条約にも確固たる支持を与えた。連邦党は反対したが、1803年10月20日、アメリカ合衆国上院はルイジアナ買収を批准した。

管轄権限移譲の式は1803年11月29日、ニューオーリンズで開催された。ルイジアナ領土はまだ正式にフランスに返還されていなかったので、まずスペインがその国旗を降ろし、フランスが国旗を掲揚した。翌日、アメリカ合衆国のジェイムズ・ウィルキンソン将軍がニューオーリンズの領有を受け入れた。1804年3月9日、セントルイスでも同じような儀式が行われた。川近くでスペイン国旗に替わってフランス国旗が揚げられた。翌日、アメリカ第1砲兵隊のエイモス・ストッダード大尉の率いる部隊が町を行軍し、砦の国旗掲揚台にアメリカ国旗を掲げた。ルイジアナ領土はメリウェザー・ルイスが代表として出席したアメリカ合衆国政府に公式に移管された。

ルイジアナ領土は1エーカー (4,000 m2) あたり3セント足らずで購入され、しかも戦争も無く、一人のアメリカ人の命も失われずにアメリカ合衆国国土を2倍にした。これはその後の領土拡大で土地を購入していく先例となり、最終的にはアメリカ合衆国が太平洋にまで到達する足がかりとなった。

1812年、アメリカ合衆国の州としてのルイジアナ州が成立し、1849年に州都がニューオーリンズ市からバトンルージュ市に移された。豊饒なルイジアナの大地に綿花砂糖のプランテーションが形成され、非常に豊かな州となったが、1861年に勃発した南北戦争では南部連合に加盟して合衆国から脱退し、1862年には北軍に占領された。北軍占領中、州都はバトンルージュ市から戦略的に重要なニューオーリンズ市に置かれた。1868年、ルイジアナ州の合衆国への復帰が認められた。1901年には州内で石油が発見され、ルイジアナ州は一時重要な産油地帯となった。
地理ルイジアナ州図ルイジアナ湿地の航空写真セントバーナード郡の黄色い野草の花畑ハニー島湿地
地形

州全体がメキシコ湾大平原の一角を占め、州北部の東境は北米最大のミシシッピ川、対岸はミシシッピ州であるが、州の南部はミシシッピ川が貫通している。州の南はメキシコ湾に面し、西はテキサス州、北はアーカンソー州と接する。

州領域は北側の高台と海岸に沿った沖積平野に分けることができる。沖積平野には標高の低い沼地、海岸の湿地と海浜、および約20,000平方マイル (51,800 km2) の防波列島がある。この地域は基本的にメキシコ湾に沿っており、また総延長600マイル (1,000 km) のミシシッピ川が州内を南北に貫通してからメキシコ湾に注いでいる。その支流としてレッド川とワシタ川が主なものであり、それらに数多い小流が合流している(その多くはバイユーと呼ばれている)。ミシシッピ川に沿った沖積平野は幅が10ないし60マイル (15 ? 100 km) あり、その他の川に沿った地域も幅が10マイル (15 km) ほどある。ミシシッピ川はレヴィー(levee。人工の堤防と同じ語である)と呼ばれる堆積物で形成された自然堤防に沿って流れ、川に向かう土地は平均して1マイルあたり3フィート (3 m/km) の傾斜が付いている。その他の水流に沿った土地も同様な形状にある。

州北部と北西部の標高が高い丘陵地は25,000平方マイル (64,750 km2) 以上の広さがある。ここは草原と森林地である。標高は川岸部や湿地で10フィート (3 m)、草原や沖積平野で50ないし60フィート (15 ? 18 m) である。州内最高地点は標高535フィート (163 m) のドリスキル山である。

この地域の水流としては、西側州境をなすサビーン川、東側州境のパール川、カルカシュー川、マーメントー川、バーミリオン川、バイユー・テシュ、アチャファライア川、ビーフ川、バイユー・ラフォーシェ、コータブロー川、バイユー・ダルボン、メイコン川、テンソー川、エイミート川、チャファンクタ川、ティックフォー川、ナットルバニー川など無数にあり、船舶が航行できるものだけでもその延長は4,000マイル (6,400 km) ある。

メキシコ湾の大陸棚は、幅3マイル (5 km) が州の管轄の及ぶ範囲になっている。ただし、アメリカ合衆国の政治地理学の奇矯さから、隣接するテキサス州やフロリダ州は幅9マイル (14 km) の大陸棚を保有している[18]

州南部の海岸は、世界でも最大級の速度で消失を続けている地帯である。その原因として、人間が管理を誤ったことが大きなものになっている。昔は毎年春にミシシッピ川の水が溢れて堆積物を増やし、湿地を増やしていたので、土地は成長していたが、その土地が現在は減少している。


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