ルイジアナ州
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その1年後、サン=ドマングで世界史の中でも最初の奴隷による革命が成功し、ハイチの建国につながった[15]

サン=ドマングの革命で、様々な人種の人々が大量に植民地を脱出した。フランス人は奴隷を連れて逃げた。自身が奴隷所有者でもあった自由有色人種も逃亡した。さらに1793年には主要都市であるカプ=フランセ(現在のカパイシャン)の3分の2を焼き尽くす大火が発生し、1万人近い人々が永久に島を離れた。革命に続く時代には、外国の侵略や内乱があり、さらに多くの人々が逃亡した。多くの者は東のサントドミンゴ(現在のドミニカ共和国)、あるいはカリブ海の近くの島に移動した。白人であれ黒人であれ多くの人々は北アメリカの、特にニューヨークボルティモアフィラデルフィアノーフォークチャールストンサバンナ、あるいはスペイン領フロリダに移動した。しかしルイジアナほどこれらの難民から影響を受けた土地は無かったといえる。フランスの海賊ジャン・ラフィット、1782年ごろにポルトープランスで生まれ、ニューオーリンズで活躍した[16]

1791年から1803年、1,300人の避難民がニューオーリンズに到着した。現地政府はその中に治安攪乱の意図を持った者がいないか心配した。1795年春、ポワントクーペで暴動がおき、農園主の家が焼かれた。これに続いてサン=ドマングからの自由難民ルイ・ブノワが、「植民地を破壊した革命思想に染まっている」と告発され、追放された。暴動が起きたことで農園主のジョセフ・ポンタルバは「サン=ドマングの惨事に注意し、革命の芽が我々の奴隷の間に広がらないよう」気をつけることになった。ポワントクーペとジャーマン・コーストでは不安定な状態が続き、1796年春には奴隷貿易を全的に停止する決断が下された。

1800年、ルイジアナの役人は奴隷貿易の再開について議論したが、サン=ドマングの黒人は入国を禁じることで合意した。フランス領西インド諸島の黒人と白人の暴動にも注目し「我々のニグロの間に危険な思想を宣伝している」と言っていた。彼等の奴隷は5年前よりも横柄で、始末に負えず、言うことを聞かなくなっていると見ていた。

同年、スペインがルイジアナをフランスに戻し、農園主達は革命を恐れながら生活を続けた。1803年、サン=ドマングに対する遠征の失敗が財政状態を悪化させ、軍事力を希薄にしたため、後に皇帝になったナポレオン・ボナパルトがアメリカ合衆国にルイジアナを売却した後、島で起こった事件の影響がより大きくルイジアナに影を落とすようになった[17]
アメリカ合衆国によるルイジアナ買収詳細は「ルイジアナ買収」を参照

1783年、アメリカ合衆国がイギリスからの独立を勝ち取ったとき、アメリカ合衆国の懸案事項の1つはヨーロッパの強国がその西側国境に接していることであり、ミシシッピ川に無制限に渡航できるようにする必要性だった。アメリカ人開拓者が西に進むにつれて、アパラチア山脈が東に品物を運ぶときの障害になることが分かってきた。商品を運ぶ最も容易な方法は、平底船オハイオ川からミシシッピ川をニューオーリンズ港まで運び、そこから大洋航行可能な船に積み替えることだった。このルートの問題点は、ナチェズより下流のミシシッピ川は両岸ともにスペインが所有していることだった。ルイジアナにおけるナポレオンの野望は、カリブ海の砂糖貿易を中心にして新しい帝国を造ることだった。1800年のアミアンの和約により、イギリスがフランスにマルティニーク島とグアドループ島の所有権を返還した。ナポレオンはルイジアナをこれら砂糖の島にとっての中継地点、またアメリカ開拓地に対する緩衝地帯と見なしていた。1801年10月、ナポレオンは重要なサントドミンゴ島を征服して奴隷制度を再導入するために大規模な軍隊を派遣した。サン=ドマングでは奴隷革命の後の1792年から1793年に奴隷制度が廃止されていた。またフランス植民地では1794年に法と憲法で奴隷制度を廃止していた。

ナポレオンの義弟ルクレールが指揮したフランス軍が、サントドミンゴ市民で構成され奴隷制度再導入に反対する軍隊に敗れたとき、ナポレオンはルイジアナを売却することに決めた。1800年のルイジアナ地図

第3代アメリカ合衆国大統領トーマス・ジェファーソンは、アメリカにフランスの植民地を再度樹立しようというナポレオンの計画に悩まされていた。ナポレオンがニューオーリンズを所有していれば、アメリカは通商に不可欠なミシシッピ川の出口をいつでも抑えられてしまうからである。ジェファーソンは、駐フランス全権公使のロバート・リビングストンにミシシッピ川東岸のニューオーリンズ市を購入し、アメリカの交易のためにミシシッピ川を自由に航行できるようにする交渉を行わせた。リビングストンは200万ドルまで支払う権限を与えられた。

スペインからフランスへのルイジアナ返還は公式には終わっておらず、スペインとのナポレオンの取引は、フロンティアでは秘密が保たれていなかった。しかし、1802年10月18日、ルイジアナの行政長官代行フアン・ベンチュラ・モラレスが、アメリカ合衆国からの全ての貨物についてニューオーリンズでの預託品の権利を取り消すというスペインの意図を公にした。この重要な港の閉鎖はアメリカ合衆国を怒らせ驚愕させた。西部での交易が事実上封鎖された。預託品権利の取り消しは、アメリカ人が法を濫用したこと、特に密貿易によって促進されたのであり、当時信じられたようにフランスの陰謀ではなかったというのが、歴史家の解釈である。ジェファーソン大統領はフランスとの戦争を要求する世論を無視し、ジェームズ・モンローをナポレオンへの特使として派遣し、ニューオーリンズ獲得を支援するように仕向けた。ジェファーソンは買収額の上限を1,000万ドルに上げることも認めた。

しかし1803年4月11日、フランスの外務大臣タレイランが、ニューオーリンズとその周辺地域のみならず、フランス領ルイジアナ全体の譲渡についてアメリカ合衆国が幾ら払う用意があるかを尋ねてきて、リビングストンを驚かせた。モンローとリビングストンは、ナポレオンが何時でもその申し出を撤回する可能性があること、ジェファーソン大統領の承認を得るためには数か月掛かる可能性があることで意見の一致を見たので、即座に交渉を開始すると決断した。4月30日、総面積828,000平方マイル (2,145,000 km2) のルイジアナ全土を、6,000万フラン(約1,500万米ドル)で購入する契約を行った。支払額の一部はフランスが既にアメリカ合衆国から借りていた負債で相殺されることとした。支払いはアメリカ合衆国の公債で行われ、ナポレオンはそれを額面価格でオランダのホープ・アンド・カンパニーに、また100ドルにつき87.5ドルの割引価格で、イギリスのベアリングス銀行に売却した。最終的にフランスがルイジアナの代償として受け取ったのは8,831,250米ドルに過ぎなかった。イギリスの銀行家アレクサンダー・ベアリングパリでマルボワと会合し、アメリカ合衆国に行って公債を回収してイギリスに運び、現金にしてフランスに渡した。ナポレオンはこの金でイギリスに対する戦争を始めた。

ルイジアナ買収の報せがアメリカ合衆国に届くと、ジェファーソンは驚かされた。ニューオーリンズの買収に1,000万ドル遣うことを認めていたが、国土の広さを倍にするような領土を1,500万米ドルで購入するという条約が出来上がっていたからだった。ジェファーソンの政敵である連邦党は、ルイジアナ領土が価値の無いものであり、合衆国憲法では上院の承認無しに新しい領土を獲得したり条約の交渉をしたりすることは許されないと主張した。連邦党を悩ませていた真実のところは、ルイジアナ領土から新しい州ができることは避けられず、その場合には議会における西部と南部の勢力を強め、ニューイングランドを基盤にする連邦党の国政の場での影響力を削ぐことになるというものだった。ジェファーソン大統領は西方への拡大を熱心に支持しており、この条約にも確固たる支持を与えた。連邦党は反対したが、1803年10月20日、アメリカ合衆国上院はルイジアナ買収を批准した。

管轄権限移譲の式は1803年11月29日、ニューオーリンズで開催された。ルイジアナ領土はまだ正式にフランスに返還されていなかったので、まずスペインがその国旗を降ろし、フランスが国旗を掲揚した。翌日、アメリカ合衆国のジェイムズ・ウィルキンソン将軍がニューオーリンズの領有を受け入れた。1804年3月9日、セントルイスでも同じような儀式が行われた。川近くでスペイン国旗に替わってフランス国旗が揚げられた。翌日、アメリカ第1砲兵隊のエイモス・ストッダード大尉の率いる部隊が町を行軍し、砦の国旗掲揚台にアメリカ国旗を掲げた。ルイジアナ領土はメリウェザー・ルイスが代表として出席したアメリカ合衆国政府に公式に移管された。

ルイジアナ領土は1エーカー (4,000 m2) あたり3セント足らずで購入され、しかも戦争も無く、一人のアメリカ人の命も失われずにアメリカ合衆国国土を2倍にした。これはその後の領土拡大で土地を購入していく先例となり、最終的にはアメリカ合衆国が太平洋にまで到達する足がかりとなった。

1812年、アメリカ合衆国の州としてのルイジアナ州が成立し、1849年に州都がニューオーリンズ市からバトンルージュ市に移された。豊饒なルイジアナの大地に綿花砂糖のプランテーションが形成され、非常に豊かな州となったが、1861年に勃発した南北戦争では南部連合に加盟して合衆国から脱退し、1862年には北軍に占領された。北軍占領中、州都はバトンルージュ市から戦略的に重要なニューオーリンズ市に置かれた。1868年、ルイジアナ州の合衆国への復帰が認められた。1901年には州内で石油が発見され、ルイジアナ州は一時重要な産油地帯となった。
地理ルイジアナ州図ルイジアナ湿地の航空写真セントバーナード郡の黄色い野草の花畑ハニー島湿地


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