ルイジアナ州
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州都バトンルージュ市、最大の都市ニューオーリンズ市である。元フランス領であったが、1812年、アメリカ合衆国の州になった。民法には大陸法の影響が色濃く残っている。また州の下の行政区画として、他州で用いられるカウンティ(county、郡)のかわりにパリッシュ(parish、キリスト教小教区を意味したが、現在は行政小教区 civil parishで、日本語ではカウンティ相当として「郡」と訳している)が用いられるのも、フランス植民地時代の影響である。パリッシュがカウンティ相当として使われるのはアメリカではルイジアナ州のみである。

州内幾つかの都市圏では多文化、多言語の遺産が残っており、18世紀に領域を支配したフランス(本国およびアカディア)やスペインヌエバ・エスパーニャ)の混合文化に強く影響され、また先住民であるインディアンや、西アフリカから奴隷として連れてこられたアフリカ系アメリカ人の文化の影響も見られる。19世紀初めにアメリカ合衆国の領土となり、アングロサクソン系のアメリカ人が流入して州に昇格する前にアメリカ合衆国の他州とは幾分異なった文化が形成され、今日に繋がっている。

家庭で話される言語(ルイジアナ州) 2010

英語  91.26%
スペイン語  3.30%
フランス語  2.79%

人種構成(ルイジアナ州) 2010

白人  60.3%
黒人  32.0%
ヒスパニック  4.2%
アジア系  1.5%
インディアン  0.7%
混血  1.6%

州名の由来

ルイジアナ(Louisiana)という地名は、フランス王ルイ14世(Louis XIV、在位:1643年?1715年)に由来する。ロベール=カブリエ・ド・ラ・サールが、ミシシッピ川の流れるこの領域をフランス領と宣言したときに、ラ・ルイジアーヌ(La Louisiane)と名付けた[2]。The 接尾辞の-ana(ないし-ane)はラテン語の接尾辞で「特定の個人、対象または場所に関するもの」を指す。したがって、大まかに言えば「Louis」+「ana」で「ルイに関するもの」を意味することになる。フランス領ルイジアナはフランス植民地帝国の一部として、現在のモービル湾からカナダとの国境の北にまで延び、カナダ南西部の小部分を含んでいた。
歴史詳細は「ルイジアナ州の歴史」および「フランス領ルイジアナ」を参照
前史時代

16世紀にヨーロッパ人がルイジアナ州となった地域に到着する以前、数千年前から先住民であるインディアンが住んでいた。現在のモンロー市に近いワトソン・ブレイク遺跡は、北アメリカでは最も初期にマウンドと呼ばれる塚が築かれた場所であり、アメリカ大陸で最古とされる複合的な構造物があった場所である。11のマウンドで構成されるこの遺跡は約5,400年前、紀元前3500年ごろに建設された[3]。中古期のケイニーとフレンチマンズ・ベンド遺跡は5,600年ないし5,000年前のものと推定されており、狩猟採集を行っていた部族が季節を選んで州北部で組織化され、複合的な構造物を建設したことを示している。リンカーン郡のヘッジペス遺跡は少し新しく、5,200年ないし4,500年前のものと推定されている[4]

それから2,000年近く後、後古期で最大かつ最も良く知られた遺跡であるポヴァティ・ポイントが建設された。現在のエップス村がその近くで発展した。ポバティ・ポイント文化は紀元前1500年ごろにその頂点を迎えた可能性があり、北アメリカでは最初の複合構造物を造り、おそらくは最初の部族文化を創った[5]。この文化は紀元前700年ごろまで続いた。

ポヴァティ・ポイント文化の後、チューラ期のチェフンクト文化とレイクコーモラント文化が続いた。これはウッドランド期のこの地方での姿だった。チェファンクト文化は、この地域で初めて大量の土器を生み出した。これらの文化は西暦200年ごろまで続いた。ウッドランド中期は南部と東部でマークスヴィル文化として、また北西部ではフーシュマリーン文化で始まった。マークスヴィル文化はアボイルズ郡のマークスヴィル前史インディアン遺跡からその名前が得られた。これらの文化はオハイオ州イリノイ州のホープウェル文化と同時期のものであり、ホープウェルの交易網の中に入っていた。南西方向の人々との交流で弓と矢がもたらされた[6]。この時代に最初の墳墓が建設された[7]。世襲的政治と宗教の指導力を高めるために、儀式の中心として最初の壇状マウンドが建設されると、政治的な権力が統合され始めた[7]。西暦400年までに南部ではベイタウン文化と共にウッドランド後期が始まったが、この地域の文化史に起きた変化の一つに過ぎなかった。人口が劇的に増加し、文化と政治の複雑さを増したという強力な証拠がある。コールズ・クリーク遺跡はウッドランド初期の墳墓の上に建てられており、特権階級が出現してその先祖を象徴的かつ物理的に崇めさせ、その権威を強調したとする学説がある[8]。ルイジアナ地域でのミシシッピ期では、プラークミン文化とカドー・ミシシッピ文化が現れた。この時期は広範にトウモロコシ栽培が採用された時である。ミシシッピ州西部とルイジアナ州東部におけるミシシッピ川河谷下流域のプラークミン文化は、西暦1200年ごろに始まり、1400年ごろまで続いた。この文化の例としては、ルイジアナ州ウェストバトンルージュ郡のメドラ遺跡や、ミシシッピ州のエメラルド・マウンド、ウィンタービル遺跡、ホリーブラフ遺跡がある[9]

プラークミン文化はミズーリ州セントルイスに近いカホキア遺跡に象徴されるミシシッピ文化中期と同時代である。この文化に所属していた人々はナチェズ族やタエンザ族の先祖と考えられている[10]。西暦1000年までに周北西部のフーシュ・マリン文化はカドー・ミシシッピ文化へと進化していた。カドー・ミシシッピ文化は、現在のオクラホマ州東部、アーカンソー州西部、テキサス州北東部、ルイジアナ州北西部など広い範囲に広がっていた。考古学調査によって、この文化は前史時代から現在まで途切れずに続いており、前史時代とヨーロッパ人による最初の接触時のカド族の直接先祖とカド語を話す人々、および現在オクラホマ州にいるカド族との繋がりは疑問の余地の無いものとされている[11]

現在ルイジアナ州の多くの地名、例えばアチャファライア、ナケテシュ、カドー、ホウマ、タンジパホア、アボイルは、様々なインディアン言語で使われていた単語の音訳である。
ヨーロッパ人による探検と植民地化ルイジアナ地域図

1528年スペインパンフィロ・デ・ナルバエスが率いた探検隊がミシシッピ川河口に到達した。1542年にはエルナンド・デ・ソトのスペイン探検隊が、ルイジアナの北部と西部を通り(カド族やトゥニカ族と遭遇した)、その後の1543年にはミシシッピ川を下ってメキシコ湾に達していた。しかしスペインはその後長い間この地域を放置したままだった。17世紀後半、フランス人とフランス系カナダ人の遠征隊が地域支配と宗教及び交易の目的を持ってミシシッピ川とメキシコ湾岸に拠点を築いた。

1682年、フランス領カナダから南下したフランス人ロベール=カブリエ・ド・ラ・サールがこの地をルイ14世にちなんでルイジアナと命名した。1699年、カナダから来たフランス軍人ピエール・ル・モワン・ディベールヴィルが、最初の恒久的開拓地であるモーレパ砦を今日のミシシッピ州ビロクシ近くのオーシャンスプリングスに設立した。この時までに、ミシシッピ川河口にもラ・バリーズ(フランス語で航路目標の意)という小さな砦を建設していた。1721年には川を航行する船を導くために、木造の高さ62フィート (19 m) の灯台のような構造物を建設した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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