リー・ド・フォレスト
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1916年、ニューヨークの実験ラジオ局 2XG を立ち上げ、世界初のラジオ広告を放送した(自身の製品のCM)。また、同年11月にはチャールズ・エヴァンズ・ヒューズウッドロウ・ウィルソンが争った大統領選挙のレポートを初めてラジオで放送した。数ヵ月後、送信機をニューヨークのハイブリッジに移した。商務省からラジオ実験局のライセンスを得ていたが、1917年4月に第一次世界大戦が始まると全てのラジオ放送が禁止された。1920年4月から1921年11月まで、サンフランシスコのカリフォルニア劇場に設置した送信機でラジオ実験局 6XC の放送を行った。1921年末にはオークランドにその設備を移し、ラジオ局 KZY とした[10][11]

1920年11月の大統領選でもラジオでの速報を放送した。ラジオ放送ではほとんど利益を得られなかった。
サウンド・オン・フィルム方式(フォノフィルム)

1919年、サウンド・オン・フィルム方式トーキーの特許を出願。これはフィンランドの発明家 Eric Tigerstedt の方式を改良したもので、フォノフィルムと名付けた。フォノフィルムはフィルムの端に明暗のある線で音を記録するもので、可変密度方式と呼ばれるものであり、その後主流となった可変領域方式とは異なる。マイクロフォンで電気信号に変換された音声信号を写真のようにフィルムに焼き付けるものであり、映画の映写時にその線から音を再生する。撮影時に同時に記録すれば音と映像の同期が容易であり、演劇、演説、ミュージカルなどの記録に使われた。1922年11月、ニューヨークに De Forest Phonofilm Company を創業したが、ハリウッド映画スタジオからは無視された。

18本の短編映画をフォノフィルム方式で製作し、1923年4月15日にニューヨークのリボリ劇場で上映した。映画館はハリウッドの制御下にあったため、個別の劇場でしか上映できなかった。内容は短いボードヴィル劇であり、ハリウッドのスタジオにはほとんどアピールできなかった。1924年にはフライシャー・スタジオがフォノフィルムを使ったアニメーション映画ソング・カー・テューンシリーズを製作、全38作品内19作品にこの方式が使われ、1924年公開の『おお、メイベル』で映像と音が一致し、1926年公開の『なつかしいケンタッキーの我が家』で音とセリフが完全にシンクロした。Freeman Harrison Owens と Theodore Case と共にフォノフィルムを改良していった。しかし、後に2人ともド・フォレストと仲違いし、Owens とは訴訟に発展している。フォックス・フィルムのウィリアム・フォックスにフォノフィルムを売り込もうとしたが、仲違いした Case がフォックスに移籍して開発したムービートーンというシステムが完成しつつあった。1926年9月に Phonofilm Company は倒産。その少し前にワーナー・ブラザースヴァイタフォン(サウンド・オン・ディスク方式)の長編映画『ドン・ファン』が公開された。

1927年以降ハリウッドではサウンド・オン・フィルム方式(フォックスのムービートーンとRCAのRCAフォトフォン(英語版))が使われ始めた。一方で映画館チェーンのオーナー M. B. Schlesinger がイギリスでのフォノフィルムの使用権を取得し、1926年9月から1929年5月までイギリス各地のミュージックホールでフォノフィルム方式の短編映画を上映した。フォノフィルム方式で製作された短編映画は200本以上あり、その多くはアメリカ議会図書館および英国映画協会が収蔵している。
晩年と死

1931年、所有するラジオ製造工場の1つをRCAに売却した。1934年、エドウィン・アームストロングとの訴訟で勝利を勝ち取った。しかし産業界はその判決に合意せず、ド・フォレストは悪者にされた。

1940年、全米放送事業者協会にラジオ放送の質の低さを糾弾する公開書簡を送った。

1957年5月22日、This Is Your Life というテレビ番組にゲスト出演し「ラジオの父にして、テレビの祖父」と紹介された。この番組や1940年の公開書簡の件は、1991年にPBSで放送されたドキュメンタリー番組 Empire of the Air: The Men Who Made Radio で紹介されている。このドキュメンタリーはド・フォレストを批判的に描いている。

1957年に Father of Radio と題した自伝を書いたが、1年後に心臓発作を起こし、その後はほとんど寝たきりとなった[12]。1961年7月1日、87歳で亡くなった[13]。死亡時のド・フォレストにはほとんど蓄えがなく、銀行の残高は1,250ドルだった[12]
受賞・栄誉

1922年に「三極管の発明とラジオ発展への貢献」に対してIRE栄誉賞(IEEE栄誉賞の前身)を受賞。1923年にはFranklin Institute のエリオット・クレッソン・メダルを受賞。1946年にはエジソンメダルを受賞。また、IEEEはリー・ド・フォレスト・メダルという賞を創設している。

デブライ大学はかつては DeForest Training School という名称で、創設者がド・フォレストの友人だった。

ド・フォレストのフォノフィルムは成功しなかったが、結局類似のサウンドトラック方式が業界標準となったことから、1960年のアカデミー賞を授与され、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに名が刻まれた。
政治姿勢

ド・フォレストは共和党保守派であり、共産主義ファシズムには断固として反対の立場だった。世界恐慌の最中に行われた1932年の大統領選ではフランクリン・ルーズベルトに投票したが、後にその政策に憤慨し、ルーズベルトをファシスト呼ばわりしている。1949年には全国会議員に共産主義的政策(医療保険制度、補助金制度、超過利益税など)に反対票を投じるよう主張する手紙を送った。1952年には副大統領リチャード・ニクソンに政府機関内にいる共産主義者を全員追い出すことを提案する手紙を送った。1953年12月には、The Nation 誌(現在は明確に左翼系雑誌とされている)が徐々に共産主義に擦り寄っているとして購読をやめた[14]
予言

ド・フォレストは様々な予言をしており、当たらなかったものも当たったもの(例えばマイクロ波が通信や調理に使われるという予言)もある。

「マイクロ波の領域では、1つのチャンネルを複数の番組が共有できるような通信方式が工夫されると予測する(中略)マイクロ波はキッチンで瞬間的に焼いたり加熱したりするのに使われるだろう」 - 1952年
[15]

「理論的にも技術的にもテレビは実現可能かもしれないが、商業的・経済的には不可能だ」 - 1926年[16]

「月や火星に行く宇宙船は実現しない。人類は地球の大気の中で生きるしかない!」 - 1952年[15]

「三極管の強力なライバルとしてベル研究所が開発したトランジスタは、増幅能力が高く、麦粒ほどに小さく、安価である。しかし動作周波数が限られており、オーディオン管増幅器を全て代替することはできないだろう」 - 1952年[15]

私生活

ド・フォレストは4回結婚している。1906年2月、ルシル・シェアドンと結婚。彼は彼女の家に受信機を置いて無線でラブコールを送ったので、新聞は「無線でプロポーズされた初めての花嫁」と大きく取り上げた。しかしルシルは夫の研究にはまったく理解を示さず、夫婦生活を拒み、ついには裕福な醸造家との交際が発覚し、離婚。結婚期間は1年にも満たなかった。1907年2月にはノラという女性と再婚する。新婚旅行中、ド・フォレストはエッフェル塔から640kmも離れた群衆に向けて音楽を流し、新聞の見出しを大きく飾った。しかし娘ハリエットの誕生後の1911年に離婚。1912年12月にはメアリーという女性と結婚。1919年に娘ディーナが生まれたことが国勢調査の記録から判明しているが、結局どういう経緯でこの結婚が終わったのかは定かでない。1930年にはマリー・モスクィーニ(英語版)というサイレント映画女優だった女性と結婚し、ド・フォレストが亡くなる1961年まで添い遂げた。
主な特許

アメリカ合衆国特許第 0,824,637号
"Oscillation Responsive Device"(二極真空管による電波検出器), 1906年1月出願、1906年6月発効。

アメリカ合衆国特許第 0,879,532号 "Space Telegraphy"(三極真空管による電波検出器), 1907年1月出願、1908年2月18日発効。

脚注・出典^ 英国人のため、米語tubeではなくvalve
^ Thomas H. Lee (2004年). ⇒“1 (A Nonlinear History of Radio)”. The design of CMOS radio-frequency integrated circuits (Second Edition ed.). Cambridge UK: Cambridge University Press. .mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 0-521-83539-9. ⇒http://worldcat.org/isbn/0-521-83539-9 


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