リヴィングストン_(スコットランド)
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リヴィングストン・ヴィレッジ(英語版)やベルスクアリー(英語版)、リヴィングストン・ステーション(現在ではディーンズ(英語版)の一部)などの小規模な集落の周囲に建設され、開発当時はウェスト・ロージアンとミッドロージアンの両カウンティにまたがっていた。

リヴィングストンには、クレイグスヒル(英語版)、ハウデン(英語版)、レディーウェル(英語版)、ナイツリッジ(英語版)、ディーンズ(英語版)、デドリッジ(英語版)、ミュリーストン(英語版)、アーモンドヴェール、エリバーン(英語版)、カークトン(英語版)、アダムブレエ(英語版)などの地区が存在する。工業団地としてはヒューストン工業団地、ブルースフィールド工業団地、アルバ・ビジネス・パーク、カークトン・キャンパスがある。

スコットランド一般登記所(英語版)による定義では、これら以外にアップホール・ステーション(英語版)とパンファーストン(英語版)(都市化地域としてはさらにミッド・カルダー(英語版)、イースト・カルダー(英語版))が含まれる[4]。このほか、隣接する集落としてはカークニュートン(英語版)、ポルベス(英語版)、ウェスト・カルダー(英語版)が挙げられる。

2011年の国勢調査によると、リヴィングストンの人口は56,269人である[5]

スコットランド唯一の補習授業校であるスコットランド日本語補習授業校はリヴィングストンに所在する。
歴史リヴィングストン・オールド・カークボタ山(ファイブ・シスターズ)
前史
中近世

リヴィングストンの名は12世紀前半の憲章に「Villa Levingi」(ラテン語・レヴィングの町)としてはじめて記録されている[6]。1128年、デイヴィッド1世は「Turstani filii Levingi」(ラテン語・レヴィングの息子タースタン)を証人とする憲章により、リヴィングストンの教会に関する権利を新設されたホリールード修道院に与えた[7]

レヴィング家はリヴィングストン・ピール(英語版)と呼ばれる砦を建てており、砦の周囲に発達した集落はLevingstounやLayingstonを経てLivingstonと呼ばれるようになった。レヴィング家は1512年に途絶えるまで一帯を支配し、断絶後砦はエリバンクのマレー家(英語版)の手に渡った。砦の最後の住人は第2代エリバンク卿パトリック・マレーで、1671年に死去した。マレーは植物学に造詣が深く、マレーの植物コレクションは没後1670年に設立されたばかりのエディンバラ植物園(英語版)に移された[8]。砦は17世紀中に取り壊され、跡地にリヴィングストン・プレイスと呼ばれる邸宅が建設された。この邸宅はマレー家からカニンガム家を経て1828年に第4代ローズベリー伯爵アーチボルド・プリムローズに買い取られ、1840年に解体された[6]。現在では、跡地はピール公園と呼ばれる公園になっており、砦の土台と堀が再現されている[9][10]
近代

リヴィングストンの周辺地域はシェールオイルの原料となるオイルシェール頁岩の一種)の産出地であり、世界初の石油ブームはこの地で発生した。1870年ごろには毎年300万トン以上のオイルシェールが採掘されていたが、20世紀に入って油田の発見が相次ぐと需要が低下し、以後1962年まで細々と採掘が続けられた。ボタ山の多くは現在では更地になっているが、ファイブ・シスターズ[11]とグリーンダイクス[12]の2か所は指定史跡(英語版)となっている。

1898年の時点で、リヴィングストンにはいくつかの家と2つの教会、学校、宿屋、そして製粉所が存在していた[6]。リヴィングストン・オールド・カークは1350年ごろから1650年ごろにかけても教会として使われていた土地に1732年に建設され、質素なジョージアン時代(英語版)の長老派教会建築の一例である[6][13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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