リヴィウ
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17世紀を通じて、リヴィウはウクライナ・コサックスウェーデンオスマン帝国などの相次ぐ襲撃を受けた。1704年には大北方戦争カール12世の率いたスウェーデン軍に占領され、町は破壊された。

1772年の第1回ポーランド分割によって、リヴィウはオーストリア帝国に帰属される。公用語はドイツ語とされ、ドイツ人チェコ人が実権を握った。19世紀初めより、オーストリア帝国政府はドイツ化を強く推し進め、それに対して1848年には民衆蜂起が起こった。住民の請願は後に受け入れられ、1860年代には大きく自治が認められた。その後、リヴィウはポーランド文化の中心地としても、また、ウクライナ文化の中心地としても重要な都市となった。その時代、ウクライナのその他の地域はロシア帝国に支配されており、ウクライナ語による出版は禁じられていた期間が長かった。

第一次世界大戦で、1914年にリヴィウは一旦ロシア帝国軍に占領されたが、翌1915年には再びオーストリア=ハンガリー帝国によって奪還された。1917年ロシア革命でロシア帝国が、1918年に敗戦国となったオーストリア=ハンガリー帝国がそれぞれ消滅。1918年11月1日西ウクライナ人民共和国の独立が宣言され、リヴィウはその首都とされた。

しかし、それに対してポーランド人の住民が蜂起し、都市の中心部を掌握した。ポーランド・ウクライナ戦争におけるポーランド人とウクライナ人の住民の間の戦闘は翌1919年7月まで続き、多くの犠牲者が出た。戦闘はポーランド軍の全面的支援を受けたポーランド側の圧勝に終わり、再びポーランドの支配が復活した。西ウクライナ人民共和国勢力の残党は、キエフジトーミルを中心に国家を建設していたウクライナ人民共和国に政府を統合させたり、あるいはロシア革命で成立したソビエト連邦赤軍と合同してポーランドとの戦闘を継続したりした。

その後、ウクライナ人民共和国のディレクトーリヤ政府は、ロシアの赤軍に対抗するためにポーランドからの協力をとりつけた代わりに、ポーランドのリヴィウに対する支配を認めた。1920年ポーランド・ソビエト戦争では、武装した住民が市内に侵攻した赤軍を撃退した。しかしながら、ポーランドはウクライナを裏切って単独でソ連側との講和に入った。1920年10月12日リガ講和条約でソ連はリヴィウを含む一帯をポーランドに明け渡した。

第二次世界大戦において、1939年9月1日ポーランドに侵攻したドイツ軍はまもなくリヴィウを包囲し、ポーランド兵の率いた蜂起は失敗した。ナチス・ドイツに続いてソ連もポーランドに侵攻し、町はモロトフ・リッベントロップ協定に基づきソ連に引き渡された。1941年6月22日に始まった独ソ戦の緒戦で町はドイツ軍に占領された。

第二次世界大戦後、一帯はウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国の領土とされた。その際に、ポーランド人の住民の大部分がポーランドに移ったとされる。それ以後、リヴィウはウクライナの民族文化の中心都市の一つとして、ロシア化への抵抗の牙城となった。「ウクライナ蜂起軍」も参照。

1803年以来東方典礼教会の一つであるウクライナ東方カトリック教会の総本山がリヴィウに置かれていたが、2005年8月、キエフに本拠地を移した。

ソビエト連邦の崩壊後、独立したウクライナの西部の主要都市となった。2022年ロシア連邦とウクライナの間で緊張が高まるとポーランドに近いリヴィウに居を移す市民が増加した[8]。同年2月14日には在ウクライナ米国大使館も首都キエフから一時的に移転[9]。同年2月24日にロシアはウクライナへの侵攻を開始したが、首都キエフへの攻勢は頓挫。在ウクライナ米国代理大使クリスティナ・クビエンは同年5月2日にリビィウ市長と市庁舎前で記者会見し、大使館機能をポーランドからまずリヴィウに、次いでキエフへ戻すことを表明した[1]。日本もリヴィウへ大使館を移転したが、ロシアのウクライナへ侵攻開始後の同年3月5日には、さらにポーランドへ移設が行われた[10]

3月18日、ロシア軍のウクライナ侵攻が始まってから、リヴィウは初めてロシア軍の攻撃を受けた[11][12]。リヴィウ市内にある空港の飛行機修理工場周辺に複数のミサイルが撃ち込まれ、建物が破壊された[11][12][13]


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