リヴァー・フェニックス
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灰から甦るフェニックスのように、自分たちの新しい人生への再生の意味を込め、家族で本姓自体をフェニックス(Phoenix)に改めた[3][4][5]

家庭は貧しく、妹と共に、路上でパフォーマンスをして生活費を稼いでいた。リバーが『スタンド・バイ・ミー』で有名になって、初めてフェニックス家は車を買うことができた。
俳優へリヴァー・フェニックスリヴァー・フェニックス
1989年3月

母がNBCの職に就いたことで10歳にして初めてテレビに出演。広告やテレビシリーズの仕事を経て、1985年、『エクスプロラーズ』で映画俳優としてのデビューを飾った。

翌1986年には映画『スタンド・バイ・ミー』への出演で注目を集める[3][4]

1988年出演の『旅立ちの時』でアカデミー助演男優賞にノミネートされるなど、数多の映画への出演をもってスターダムへの階段を駆け上がっていった。

1991年配給の『マイ・プライベート・アイダホ』ではヴェネツィア国際映画祭の男優賞を受賞。代表作とされるこの作品での演技は俳優仲間にも評判が良かったという。
死についてザ・ヴァイパー・ルーム

1993年、弟のホアキンと共に訪れたウェスト・ハリウッドジョニー・デップが経営しているナイトクラブ「ザ・ヴァイパー・ルーム」の入口付近にて、ヘロインコカイン過剰摂取が原因で倒れ、病院に搬送されるが心不全で死去した[6]

当時、レッド・ホット・チリ・ペッパーズを一時脱退していたジョン・フルシアンテとはドラッグ仲間で、死の直前にも共にヘロインなどを摂取していた。倒れて搬送される際には、親友であったフリーが救急車に同乗し、彼の最期を看取った。

フロリダ州散骨されたためはない。ファンは最期の地であるザ・ヴァイパー・ルームを弔問することが多い[6][7]
遺作

2012年9月、未完成のままお蔵入りされていた遺作『ダーク・ブラッド』(1993年)が、ジョルジュ・シュルイツァー監督の地元オランダでプレミア上映された[8]

『ダーク・ブラッド』を完成させたあと、予定ではすぐに『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』のインタビュアー役を演じることになっており、11月30日から登場するシーンの撮影を始めることになっていた。リヴァーは生前、アメリカの『プレミア』誌で、インタビュアーの役について「吸血鬼にあまり興味がわかないんだ。救いなのはインタビューする方で客観的に見ていられることだね。」と語っていた。また、ニール・ジョーダンの脚本も、原作者アン・ライスの筋書きも、殺しと同じくらいエロティックさを強調していることで、「エロティックなシーンと血まみれのシーンとが背中合わせって言うのが不気味だよ。吸血鬼の世界ではそれがセクシーなんだろうね。」とも語っており、単なるセックスシンボルと見られることを非常に嫌っていたようである。リバーの死後、この役は代わってクリスチャン・スレーターが演じることとなった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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