1973年に家族でカルト宗教団体「神の子供たち」(現在のファミリー・インターナショナル)に入り、両親が宣教師となったことで、幼少の頃は南アメリカの各地を転々とする生活であった。
1977年、家族は神の子供たちから離脱して帰国、カリフォルニア州のロサンゼルスに移る。灰から甦るフェニックスのように、自分たちの新しい人生への再生の意味を込め、家族で本姓自体をフェニックス(Phoenix)に改めた[3][4][5]。
家庭は貧しく、妹と共に、路上でパフォーマンスをして生活費を稼いでいた。リバーが『スタンド・バイ・ミー』で有名になって、初めてフェニックス家は車を買うことができた。
俳優へリヴァー・フェニックスリヴァー・フェニックス
1989年3月
母がNBCの職に就いたことで10歳にして初めてテレビに出演。広告やテレビシリーズの仕事を経て、1985年、『エクスプロラーズ』で映画俳優としてのデビューを飾った。
翌1986年には映画『スタンド・バイ・ミー』への出演で注目を集める[3][4]。
1988年出演の『旅立ちの時』でアカデミー助演男優賞にノミネートされるなど、数多の映画への出演をもってスターダムへの階段を駆け上がっていった。
1991年配給の『マイ・プライベート・アイダホ』ではヴェネツィア国際映画祭の男優賞を受賞。代表作とされるこの作品での演技は俳優仲間にも評判が良かったという。
死についてザ・ヴァイパー・ルーム
1993年、弟のホアキンと共に訪れたウェスト・ハリウッドでジョニー・デップが経営しているナイトクラブ「ザ・ヴァイパー・ルーム」の入口付近にて、ヘロインとコカインの過剰摂取が原因で倒れ、病院に搬送されるが心不全で死去した[6]。
当時、レッド・ホット・チリ・ペッパーズを一時脱退していたジョン・フルシアンテとはドラッグ仲間で、死の直前にも共にヘロインなどを摂取していた。倒れて搬送される際には、親友であったフリーが救急車に同乗し、彼の最期を看取った。
フロリダ州で散骨されたため墓はない。ファンは最期の地であるザ・ヴァイパー・ルームを弔問することが多い[6][7]。