リンドン・ジョンソン
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ケネディ暗殺後の1964年アメリカ合衆国大統領選挙では、ケネディへの同情票と昇格後1年間の政権の成果を評価する票で共和党候補のバリー・ゴールドウォーターを大差で破り、歴史的な大勝を果たした。しかし1965年からベトナム戦争の拡大で国の内外からの強い批判に身動きが取れなくなり、次の再選を目指した1968年アメリカ合衆国大統領選挙で民主党の大統領候補の指名を受けることが危ぶまれる状況となり、1968年3月31日、全米に向けたテレビ演説でそれまでのベトナム政策の劇的な転換を発表すると同時に大統領選挙に再出馬をしないことを表明、自らの政治生命に幕を引いた。
来歴
生い立ち

1908年8月27日にテキサス州中央部のテキサス・ヒル・カントリーと呼ばれる地域にある農村、ストーンウォールで誕生した。彼の両親サミュエル・ジョンソンとリベカ・ベインズは、貧しい地域で農場を所有しており、彼らには更に4人の子供がいた。妹のリベカ、兄弟のジョセファ、サム・ヒューストン、ルシア。リンドン・ジョンソンは幼年期を通じて公立学校に通い、1924年にジョンソンシティ高校を卒業した。

1926年には、南西テキサス教員養成大学(現・テキサス州立大学サンマルコス校)に入学した。校内活動や学校新聞の作成に参加し、苦労しながらも1931年に卒業した。なお在学中に1年休学し、テキサス州南部・コトゥーラの貧しいメキシコ系移民の生徒が通う学校で教師見習いを務めている。
政治家へテキサス州第10下院議員選挙区の補選に出馬したジョンソン(右)の支援に訪れたフランクリン・ルーズベルト(左)

ジョンソンは大学を卒業した後、ヒューストン高校で演説および討論を教えた。しかしながらすぐ教職を辞め、父親の力を借りて政治の世界に入った。ジョンソンの父は、テキサス州議会で5期務めており、後に連邦下院議長となるテキサス州選出下院議員のサム・レイバーン(英語版)とは親しい友人だった。以後サム・レイバーンはジョンソンの政治指南役として彼に影響を与え、大統領になった後まで続いた。1931年にジョンソンはウェリー・ホプキンス州議会議員の連邦下院議員選挙に協力し、ホプキンスはその労に報いてジョンソンをリチャード・クレバーグに紹介、推薦した。これによりジョンソンはクレバーグの立法秘書官となり、ワシントン立法補佐グループの議長の座を与えられた。

秘書としてのジョンソンは数々の影響力を持つ人々と知り合い、彼らがどのようにその地位に達したか、いかにして尊敬を集めているかといったことを学んだ。またルーズベルト政権の主要人物数人ともパイプを持ち、当時副大統領だったジョン・ナンス・ガーナーとは同じテキサス州出身で、その後相談役としてジョンソンを支えていくこととなった。

秘書在任中、ジョンソンはテキサス出身のクローディア・アルタ・テーラーと出逢い、数度のデートの後、1934年11月17日に結婚した。これが後にレディ・バード・ジョンソンとして知られるようになるジョンソンの妻である。夫妻には、1944年に長女のリンダ・バードが、1947年には次女のルーシー・ベインズが生まれている。

1935年にはテキサス州青年局長に就任し、政府が若い人々のために教育の充実と雇用の拡大をするよう尽力した。この活動によってジョンソンは自身の政治的地盤を構築することができた。ジョンソンはとてもタフな上司として部下の間では有名だった。彼は2年間青年局長を務め、議会選挙へ出馬するために辞職した。

1937年にジョンソンはオースティン及び周辺町村を含むテキサス州第10下院議員選挙区の補選に出馬した。彼は妻の大きな支援を受けながら、ニューディール政策の推進を選挙公約に掲げて選挙活動を繰り広げ当選した。下院議員になるとフランクリン・ルーズベルトはこの若いテキサス人に関心を示し、新人議員にとって非常に重要な意味を持つ海軍軍事委員会の委員にジョンソンを指名した。また下院議員として、主に自身の選挙区に電気をもたらすことをはじめ地元発展のために奔走した。

1941年にジョンソンはテキサス州の現職上院議員の死去に伴い上院の補欠選挙に出馬する決意をして、民主党上院議員候補に名乗りを上げて現職テキサス州知事でラジオパーソナリティのW・リー “パピー” オダニエルと民主党候補指名を争った。当時のテキサス州は民主党の牙城で民主党での指名を得ることは即議員に当選すると言われた時代であったが、当時有名だった州知事を前にジョンソンは当初全く歯が立たないと予想された。しかし、力強い選挙活動を展開して、きわどい差まで追い込んだが結局ジョンソンは敗れた。
第二次世界大戦海軍少佐の制服に身を包んだジョンソン下院議員(1942年)

上院補選の選挙運動の終盤において、ジョンソンはもし戦争が始まったら招集に応じて戦地に赴き敵と戦うという公約を掲げていたが、程なくして1941年12月7日(アメリカ・ハワイ時間)朝、日本軍の真珠湾攻撃で、翌8日にアメリカは日本に宣戦布告し第二次世界大戦に参戦した。大戦中ジョンソンは海軍少佐として従軍し、銀星章、アジア太平洋従軍記章および第二次世界大戦戦勝記念章を受章した。しかし戦後になって銀星章受章の背景には極めて政治的な目論見があったことが臆測されるようになった。

1940年6月20日、下院議員時代に初めて平時の徴兵を行うための法案が議会に提出された時、予備役海軍少佐だったジョンソンは自身の招集を免除する約束を取り付けた上でこの法案に同意した。ところが翌年アメリカが大戦に参戦すると、一転して海軍省次官ジェームズ・フォレスタルに自分を非戦闘員として配置するよう求め、テキサスと西海岸の造船工廠の検査役となった。

アメリカ軍が各地で日本軍に対して劣勢な中、1942年春ごろになると、ジョンソンはルーズベルトに、今度はより戦闘地域に近い戦地に自らを配置にするよう求めた。情報が軍の指揮系統を経由する間に歪められることを予想したルーズベルトは、南西太平洋地域で信頼できる情報源を得たいと考えていた。そしてフォレスタルの提案により、ルーズベルトはジョンソンを南西太平洋の偵察隊に配置した。ジョンソンはオーストラリアメルボルンで司令長官ダグラス・マッカーサーと会い、第22爆撃隊に配属された。偵察目標はニューギニア島にある日本海軍のラエ飛行場だった。司令官は外部の偵察員などかえって足手まといだと感じていたが、ジョンソンはその必要性を強く主張した。

1942年6月9日、ニューギニア付近のポートモレスビーおよびサラマヌアで勇気ある行動を見せた。南西太平洋地域の情報活動任務でジョンソンは戦闘に関する情報を直接得るために、ニューギニアのまだ日本が制空権を握っている空域で危険な任務を帯びた偵察を志願した。ジョンソンの搭乗するB-26マローダー爆撃機とともに偵察活動に出た部隊は日本軍の攻撃を受けたが、ジョンソンの搭乗機はその前にエンジントラブルで引き返しており、爆弾も投下せず、戦闘には参加していなかった[2]。マッカーサーはジョンソンと生き残った偵察員に最高位から3番目に位置する銀星章を授与した。

帰国後、ジョンソンは「我々の軍用機は日本の戦闘機にはるかに劣っていた」、「士気は高くなかった」などと正直に委員会に報告している。しかしその活動内容は非難を浴びたため、ルーズベルトは軍務に就く議員を議会に戻すことを命じた。
上院議員

1948年の大統領選挙と同時にジョンソンは再び上院議員選挙に挑戦、このときは民主党候補の指名を受けて、共和党候補を破り当選した。ジョンソンはその圧勝により「地滑りリンドン(Landslide Lyndon)」と呼ばれた。上院では軍事委員会の委員に指名され、1950年の後半には調査小委員会の結成に貢献した。その後この委員会の委員長となり、防衛費と予算効率の多くの調査を行った。これらの調査の結果によりジョンソンは他の議員の尊敬と共に全国的な注目を集めた。やがて彼は「論争を最小限に抑えて案件を処理する能力に長けている」と言われ、立法の魔術師というあだ名がつけられた[3]

上院議員として数年の活動後にジョンソンはリーダーシップを発揮して、1953年には少数党院内総務に選出された。ジョンソンの最初の活動は委員会への選出から年功制を取り除くことであった。1954年にジョンソンは上院議員に再選され、民主党は上院で多数派となりジョンソンは多数党院内総務となった。そして「同僚議員を説得する力と他人を操作する技術」をフルに生かして本会議と委員会の運営を支配し多くの法案を成立させるために尽力した[4]
1960年大統領選挙

ジョンソンは上院院内総務としての実績により、1960年大統領選挙で民主党における有力な大統領候補とみなされることになった。しかしこの年3月のニューハンプシャー州の予備選から勝ち上がってきたマサチューセッツ州選出の上院議員、ジョン・F・ケネディに獲得した代議員数で差をつけられて、またジョンソン自身の立候補宣言が遅すぎたこともあって7月の民主党大会で彼は409票を得たが、その2倍近い806票を得たケネディが民主党大統領候補に選出された。そして民主党大会の最終日にケネディが副大統領候補に指名したのは対立候補であったジョンソンであった。

リベラルな北部出身のケネディがジョンソンを副大統領候補に指名したのは、南部テキサス州出身のジョンソンと組むことで、南部の保守票を獲得することにあった。これは当時も現在も正副大統領の組み合わせで南北のバランスを取ることは普通のことであった。しかし当時の副大統領は閑職とされており、政権内部でリーダーシップを取ることはなく、この時ジョンソンの政治指南役で同じテキサス州のサム・レイバーン下院議長は副大統領候補を受諾したジョンソンに失望したとされ、フランクリン・ルーズベルト大統領時代に副大統領を務めた同じくテキサス州出身のジョン・ナンス・ガーナーは「副大統領なんぞ、たんつぼほどの値打ちもない」とジョンソンに語っている[5][注釈 1]

同年11月、民主党のケネディ=ジョンソンは小差で共和党のニクソンロッジに勝利して、トルーマン大統領以来8年ぶりに民主党の大統領が誕生することとなった。


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