『The Stone Poneys』は売れなかったが、同年6月のセカンド・アルバム『Evergreen Vol. 2』からのリカット・シングル「悲しきロック・ビート」が、1968年になって全米13位を記録し一躍注目を浴びた[14]。「悲しきロック・ビート」は、当時人気絶頂だったモンキーズのマイク・ネスミスの作品[14]。しかし、その後はヒットは出せず、バンドは解散した[15]。愛くるしいミニスカートに裸足という姿でステージに立ち、精一杯歌うリンダは、誰の目にもナチュラル・ボーンな魅力に溢れたシンガーに映り、音楽ビジネス側の興味がリンダ一人に集中していたことは否めない[6][15]。「ストーン・ポニーズ」は次第にリンダのソロ・プロジェクトの色を濃くし「悲しきロック・ビート」には、他の二人は参加しておらず、1968年の3枚目のアルバム『Linda Ronstadt, Stone Poneys And Friends,Vol.III』は、実質的にリンダのソロ作となり、制作途中にバンドは消滅した[15]。 バンド時代から「レコーディングはリンダ1人で」と誘われることが多く1969年3月、すんなりソロ・デビュー。自ら作詞・作曲はせず、新曲でもない、ほぼ全曲、過去に世に出たカバー・ソングを歌う[4][16]。カーラ・ボノフやJ.D.サウザーなど、当時あまり売れていなかったミュージシャンの曲を取り上げ世に出したことでも知られる[12]。またロイ・オービソンやバディ・ホリーは、リンダのカバーがきっかけで、1970年代の若者に偉大な先人として改めて紹介された[7]。 ソロ二枚目の1970年のアルバム『Silk Purse(シルク・パース/旧邦題:ロング・ロング・タイム)』は、ジャニス・ジョプリンからの紹介でエリオット・メイザーがプロデューサーとなり、ナッシュビルで録音された[15]。ソロ・シンガーとして注目されはじめるのは、このアルバムからのシングルカット「ロング・ロング・タイム(Long Long Time)」のヒットからで[17]、同年のグラミー賞にもノミネートされた[14]。この頃から1970年代のウエストコースト・サウンド・ムーブメントの中心で活躍する女性シンガーとして次第にその名を知られるようになる。ジョニー・キャッシュにも気に入られ『ジョニー・キャッシュ・ショー』(ABC)には番組が続いた1971年まで計4回出演した[15][18]。1972年の3枚目のアルバム『Linda Ronstadt』では、友人のジャクソン・ブラウンの尽力で[14]、バック・バンドのメンバーとして集められたドン・ヘンリーとグレン・フライ、バーニー・レドン、ランディ・マイズナーが、リンダのサポート後イーグルスとして独立した[19]。 バンド時代とソロ2枚目あたりまではカントリー・フォーク中心の曲構成だったが[4]、徐々にロック色を強め[6]、バックバンドを務めたイーグルスのナンバーやオールディーズナンバーをロック的なボーカルスタイルに変えて、佳作を発表した。イーグルスの名バラード「ならず者 (Desperado)」を最初にカバーした[20]。また、ニール・ヤングの「孤独の旅路」(1972年)のバック・コーラスもつとめ、1973年にはニール・ヤングのツアーでオープニングアクトを務めている[16]。 1973年のアサイラム移籍第一弾『Don't Cry Now』は、当時の恋人J.D.サウザーがプロデューサーだったが、2曲のみピーター・アッシャーが担当[8]。ジェームス・テイラーを時代の寵児にしたアッシャーが、ジェームス・テイラーと袂を分かち[4]、代わりにプロデューサー兼マネージャーを引き受け[4]、リンダを大きな成功に導いた[7][21]。 存在が広く知られるようになったのは、契約の関係でキャピトルから1974年に発売されたアルバム『悪いあなた(Heart Like a Wheel
ソロ期
成功オランダ・スキポール空港にて(1976年)