リングワ・フランカ
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国連公用語に採用されたアラビア語は現代標準アラビア語である。また、使用人口が多くメディアで流布されるカイロ方言などが、出身地の異なるアラブ人同士のコミュニケーションに用いられることもある。
ペルシア語

ペルシア語(ファールシー語、F?rs?)は、サーサーン朝の滅亡後に一旦は衰退したが、サーマーン朝(873年-999年)において行政言語、文学・歴史・哲学などの学術用語として使用され、以降もガズナ朝(955年-1187年)、セルジューク朝(1038年-1306年)、イルハン朝(1258年-1353年)、ティムール朝(1370年-1507年)、サファヴィー朝(1507年-1736年)、ムガル帝国(1526年-1858年)などの多くの国で公用語として使用され、19世紀前半まで中央アジアインド亜大陸からメソポタミア小アジアにかけて広大なペルシア語圏が成立し、ペルシア語は重要な国際共通語であった。
チャガタイ・トルコ語

チャガタイ・トルコ語(チャガタイ・トルコご)は中央アジアテュルク系言語を基礎とし、それにペルシア語やアラビア語の語彙語法を加えた言語。詳細は「チャガタイ語」を参照
漢文

中国をはじめ、日本朝鮮ベトナム台湾といった東アジア漢字文化圏)においては、紀元前後から近世に至るまで、古代中国の漢文(現代中国語では文言文という)が、リングワ・フランカおよび外交用語としての役割を果してきた。漢字表意文字であることから、これらの国では互いの言語を理解できなかったとしても、漢文による意思疎通が可能であった。中国国内でも、中国語の方言の差異は著しく、発音のみならず文法まで異なる場合もあり、実質上は別言語であり相互理解不能なほどであるが、文語であれば相互理解が可能であった(共通口語としては官話が用いられている)。

第二次世界大戦終結後の北朝鮮ベトナムでは漢字の使用を廃止したり、近代までは共有されていた古典漢文の教養が失われたりしたことによって、現在では通商語としての地位は著しく低下した。
ギリシア語

航海技術に優れた古代ギリシア人は地中海一帯に植民市を形成し、また通商に携わったことからギリシア語は地中海地域で広く用いられた。更にアレクサンドロス大王の征服とそれを継承するヘレニズム諸王朝により、ギリシア語はエジプトと西アジアの支配層の言語となる。ギリシア語の用いられた地域の多くは古代ローマに併呑されるが、ローマ文明は学術の面でギリシア文化を範としたことから、ギリシア語はローマでも教養人の必須科目であり、ローマ領域の東部では依然ギリシア語が用いられ続けた。新約聖書はギリシア語によりローマ帝国内で形成されたものである。

ローマ帝国がイタリア半島を含む国土の西部を失い東ローマ帝国の枠組みが成立すると、ギリシア語が東ローマ帝国における公用語として扱われるようになる。また帝国の国教である東方正教会の典礼語として、布教とともに帝国領外にも普及していった。しかし、宗教文書の現地語への翻訳と東ローマ帝国の領域縮小・滅亡を経て、コミュニケーション言語という面ではギリシア人の民族語以上のものではなくなった。しかしながら、現在でも学術用語の語彙においては、ギリシア語の単語が多用されている。

なお、以上の「ギリシア語」は時代による変化が大きく、必ずしも同一の言語とは言いがたい面もある。「ギリシア語#歴史」を参照
ラテン語

古代ローマの公用語であったラテン語は、西ローマ帝国滅亡後、民衆の言語としてはロマンス諸語に変容したが、西欧中欧においてはカトリック教会の公用語および学術・外交用語として用いられ続けた。むしろ西ローマ帝国滅亡後は知識人の必須教養としてのギリシア語の地位が失われたために、それに代わってラテン語は公文書の記述言語として用いられ、西欧における知識人の必須教養としての地位を得たと言ってよい。活版印刷で現地語の印刷物が普及するとラテン語の地位は相対的に低下し、宗教改革国民主義の勃興はこれに拍車をかけた。現代ではラテン語はリングワ・フランカと言うほど話されているとは言いがたいが、それでも欧米人の間での教養として、学名解剖学など学術用語、成句や一般の語彙にその名残りを見ることができる。


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