リュブリャナ
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後にこの地域は様々な部族や人々の多くの生活の跡が残され、その中にはケルト人イリュリア人が混合したラピデスと呼ばれる人々や3世紀のケルト人の一部族タウリスキ族も含まれている[14]

紀元前50年にローマ人が後のエモナ(Aemona/Emona)となる軍の野営地を設置する[15]。要塞は強化され、ローマ軍団の 第十五アポロン軍(Legio XV Apollinaris)が使用した[16]。452年にアッティラの命令によりフン族により破壊され、その後は東ゴート族ランゴバルド人によって破壊されている[17]。エモナには5,000 - 6,000人の住民が居て、多くの戦いで重要な役割を果たした。住居はプラスターを塗った煉瓦の異なった色の家で既に下水設備につながれていた[15]

6世紀になるとスロベニア人の祖先のスラヴ人が移動して来るようになり、9世紀にはスロベニア人はフランク王国の支配下に入りマジャル人の襲撃を度々経験する[18]
中世から近世

長い間リュブリャナが最初に言及されたのは1144年であるとされていたが、しかしながら2002年に同様に古い『死者の名前』(Nomina defunctorum) と呼ばれる羊皮紙のシートが発見された。この羊皮紙はウーディネ大聖堂の公文書館に保存されている。記録は1112年-1125年となっており、貴族のRudolf of Tarcentoやアクイレイアの総大司教が大砲とリュブリャナ城(castrum Leibach)のそばに20の農地を総司教に授けたことが言及されている[19][20][21]

リュブリャナの町が正確に町の地位を得た時期ははっきりとは分かっていないが[22]1220年より以前であった[23]。13世紀、町はスタリ・トルグ (Stari trg)、ノヴィ・トルグ(Novi trg)、メスト(Mesto、今日の聖ニコラヤ大聖堂周辺)という3つの地域で構成されていた[22]。最初の記録では1200年頃に市場を保持する権利を有していたと考えられるが、最も古い前記の3地区が必ずしも含まれていた訳ではない[22] 当時のリュブリャナ城領主はシュプンハイム家であったが、周辺の土地や屋敷は他の貴族たちのものであった[20][22]

1270年、カルニオラとリュブリャナはオタカル2世により征服された[18]。オタカル2世がルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)に敗北すると、ルドルフ1世が町を1278年手に入れた[18]。ルドルフの誓約によりリュブリャナは1279年 - 1335年の間ゴリツィア伯国の支配下にあり、その後は再びハプスブルク家の支配下となり[22]、ライバッハ (Laibach)と改名され1797年までハプスブルク家に属していた[17]。1461年にカトリック教会のリュブリャナ司教座が設けられ、聖ニコラヤ教会は大聖堂になった[18]

15世紀にリュブリャナは芸術で認められ、1511年の震災後にルネサンス様式で町は再建され新しい城壁がその周囲に築かれた[24]。16世紀、町の人口は5,000人を数え、70%の住民はスロベニア語第一言語とし、残りのほとんどはドイツ語が使われていた[24]。その直後にドイツで初めてスロベニア語で書かれた書物プリモシュ・トゥルバル (en) (Primo? Trubar)のカテキゼム  (en) (Katekizem)が出版され、教育者のアダム・ボホリッチ (en) (Adam Bohori?)は "Elementale Labacense oder Abecedarium der lateinischen, deutschen und slowenischen Sprache"、"Nomenclatura trium linguarum"、"Otroshia tabla"の3冊のスロベニア語で書かれた本を著し、ヤンシュ・マンデルツ( Jan? Mandelc)により刷られている。この時点で町では宗教改革の基礎を得ている。ルーテル教会牧師はプリモシュ・トゥルーバーやアダム・ボホリッチ、ユーリィ・ダルマティンを含めリュブリャナに居住して布教を行っていた。スロベニア語の聖書が使われていたが、印刷はドイツのヴィッテンベルクで行われていた。同時期には最初の高校や公共図書館、印刷所がリュブリャナに開設されている[24]。1597年には町にイエズス会がやって来て、後にカレッジになる高校を設立している。17世紀後半にはバロック建築が現れ始め、外国の建築家や彫刻家がリュブリャナの町に訪れるようになった[24]
近代

ナポレオン・ボナパルトは1809年 - 1813年にフランス第一帝政イリュリア州の州都をリュブリャナに置いた[17][25]。1815年になると町は再びオーストリアの支配となり、1816 - 1849年にオーストリア帝国の地方行政区画としてイリュリア王国の行政的中心となった。1821年にライバッハ会議(英語版)の開催都市となり、これによって定められたヨーロッパの政治的境界線はその後、長年にわたって固定化されることとなった[26]。1849年には帝都ウィーンから最初のオーストリア南部鉄道が開業し、1857年には今日のイタリア北東部のトリエステへ延伸された[25]

1895年にリュブリャナはマグニチュード6.1の震災に見舞われた(1895年リュブリャナ地震(英語版))[27]。当時の人口は31,000人で、10%にあたる1,400の建物が破壊され大きな被害をもたらしている。震災後は再建がウィーン分離派様式により各地区で再建が行われた[25]。街灯はリュブリャナの町には1898年に現れ、再建に続いて町の近代化が当時の市長であったイヴァン・フリバル(英語版)により進められた。

1918年に第一次世界大戦が終結するとオーストリア=ハンガリー帝国は解体し、リュブリャナは後のユーゴスラビア王国となるセルビア人・クロアチア人・スロベニア人国の一部となり、スロベニア地方の中心都市となった。1929年にユーゴスラビア王国の行政区分が再編された際には、現在のスロベニアとほぼ同じ領域を占めるドラヴァ州(英語版)の州都となる[28]
第二次世界大戦から現代

第二次世界大戦ナチス・ドイツを主幹とする枢軸国ユーゴスラビア侵攻作戦を発動し、1941年4月10日、ドイツ国防軍がリュブリャナを占領した[29]。リュブリャナはドイツの同盟国であるイタリア王国に占領されその一部となり、1941年5月3日にリュビアナ州 (en) の州都リュビアナとされ、市長には以前のユーゴスラビア王国の将軍であったレオン・ルプニク (en) が就いた。イタリアの降伏後はドイツ国防軍とナチス親衛隊(SS)の親衛隊大将エアヴィン・レーゼナー (en) とフリードリッヒ・ライナー (en) が1943年に町の実権を握ったが 、形式上は1945年5月9日までイタリア王国リュビアナ州の州都とされていた。リュブリャナでは占領軍は要塞を設け、占領軍の協力者の組織としてイタリア占領時代は反共産主義義勇兵 (en) 、ドイツ占領時代はドモブランツィ (en) などが組織された。


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