リミニ
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14世紀にリミニは基礎自治体となり、キリスト教修道会がやってきて、数多くの修道院と教会を建てた。

1239年に市のポデスタ(封建的な領主)となった、コンドッティエーレ出身のマラテスタ・ダ・ヴェルッキオと市政の派閥の間の闘争から、マラテスタ家が台頭した。中断があったものの、マラテスタ家は1528年まで実権を掌握していた。1312年、マラテスタの子マラテスタ2世・マラテスタがポデスタの地位を継承し、最初のリミニのシニョーレとなった。マラテスタ2世の実弟パンドルフォ1世・マラテスタは、ロマーニャ地方における帝国の代理として神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世から任命された。マラテスタ2世の子フェッランティーノは、1335年にいとこランベルトによって敵対され、1363年にはローマ教皇ヨハネス22世の全権委任大使であるベルタンド・デル・ポッジェット枢機卿と対立した。マラテスタ3世は、1363年にペーザロ領主にもなった。マラテスタ4世は1340年からファーノ領主、1378年からチェゼーナ領主となった。

マラテスタ4世の子カルロ1世・マラテスタは、当時最も尊敬されたコンドッティエーレの1人で、ロンバルディアにおけるリミニ領土を拡大し、港を復興させた。1429年にカルロ1世は嫡子のないまま死に、リミニ領は3分割された。リミニ市を獲得したのはガレオット・マラテスタであった。マラテスタ家のペーザロ領主をつとめていた傍系が、ガレオットの隙をついてリミニを獲得しようとしたが、当時14歳であったシギスモンド・パンドルフォ・マラテスタ(カルロ1世の甥)が間に入ってリミニを救った。ガレオットは修道院へ引退し、シギスモンドがリミニを掌握した。

シギスモンドはリミニで最も有名な領主だった。1433年、皇帝ジギスムントがリミニに滞在し、しばらくシギスモンドは教皇軍の司令官となった。有能な将軍であったシギスモンドは、しばしば他国家でコンドッティエーレとして雇われて金を稼ぎ、リミニを豊かにした(シギスモンドは詩の愛好家でもあった)。彼は、レオン・バッティスタ・アルベルティによって再建されたマラテスティアーノ教会を持っていた。しかし、教皇ピウス2世が台頭すると、彼はリミニの独立のために絶えず戦い続けなければならなかった。1463年、彼はリミニとわずかな領地を残してピウス2世に従属を強いられた。1482年、シギスモンドの子ローベルト・マラテスタはパウルス2世時代にほぼ自分の国家を失った。しかし、シクストゥス4世はローベルトをナポリ王アルフォンソ1世(アラゴン王アルフォンソ5世)に対する教皇軍の司令官とした。1482年のカンポモルトの戦いで、ローベルトはナポリ軍に勝利した。ローベルトの子パンドルフォ4世・マラテスタは、1500年にリミニをチェーザレ・ボルジアに奪われた。リミニはその後1503年から1509年までヴェネツィア共和国に支配された後、教皇ユリウス2世が再び獲得し、教皇領へ組み入れた。レオ10世の死去後、パンドルフォ4世は数ヶ月間リミニを治めた。そして嫡子シギスモンドとともに専横な支配を行った。教皇ハドリアヌス6世は再びマラテスタ家を追放し、ロマーニャ地方の教皇の代理人であるウルビーノ公へリミニを与えた。1527年、シギスモンドはリミニを再び得ようと画策するが、マラテスタ家支配は二度と復活しなかった。リミニの狼と呼ばれたシギスモンド・パンドルフォ・マラテスタ。1450年頃、ピエロ・デラ・フランチェスカ画。ルーヴル美術館
近代

16世紀初頭、今や教皇領の第2の町になったリミニは、教皇大使(教皇領の県における世俗の知事)の下で地元政府を持っていた。16世紀終わりへ向かい、カヴォウル広場が閉じられ、その場所にポレッティ劇場が建てられ、再設計された。パウルス5世像が1614年から泉の隣の広場中心に立っている。 16世紀、グランデ広場で市場や競技会が開かれ、多様な変化を経験した(広場は現在、第二次世界大戦末期に退却するナチス軍によって絞首刑にされた3人のリミニ市民を讃え、トレ・マルティーニ広場と改名されている)。例えば、聖パドヴァのアントニオに捧げられた小さな教会と時計塔が建てられ、広場に現在の姿かたちを与えた。

18世紀まで、軍の略奪、地震、飢饉、洪水、海賊の攻撃がリミニを襲った。この鬱々とした状況と地元経済の弱体化のため、漁業が重要性を持つようになった。魚市場と灯台といった実用的な施設の建設が、これを証明している。

1797年、リミニはエミリア=ロマーニャ州の他都市と同様に、フランス革命軍の通過で影響を受け、チサルピナ共和国の一部となった。ナポレオン1世は修道会を抑圧し、彼らの資産を没収した。相当な数の歴史遺産が四散し、サンタ・コロンバ旧教会を含む多くの教会が廃止された。1815年3月30日、ジョアシャン・ミュラがリミニ出身のイタリア人に対し、彼らの統合と独立を刺激する、自身の声明書を送りだした。1845年、リボッティが率いる冒険団が市に入り、独立を宣言したがすぐに廃止された。1860年、リミニとロマーニャ地方はイタリア王国へ統合された。

19世紀のような市の構想は、アウグスト道沿いに立てられた邸宅、特に劇場によって与えられた。これらは、ルイージ・ポレッティの設計で、支配階級の野心である新古典主義建築を導入するのに成功した。

しかし、大規模な革命的要素は1843年が基盤となった。初の水泳の公共施設の設立、クルザール(Kursaal、ドイツの娯楽館)が立派な社会的行事のため建設され、これがリミニ観光の象徴となった。2、3年間に、マリーナと相当な量の建物の建設が、リミニを『小さな別荘のある都市』に仕立て上げた。20世紀初頭、市初の重要な設備の整った施設であったグランド・ホテルが海岸近くに開業し、すぐに市観光の新たな象徴となった。

第一次世界大戦中、リミニと周辺コムーネのインフラストラクチャーは、オーストリア=ハンガリー帝国海軍の主要標的の一つとされた。1915年5月15日のイタリア参戦後、帝国海軍が同日に母港を出港し、ヴェネツィアとバルレッタの間のイタリア東岸への猛攻を開始した。

第二次世界大戦中、市は激しい爆撃とゴシック・ラインに添った前線のために引き裂かれ、その後ギリシャ軍とカナダ軍に占領された。1944年9月21日に解放された後、再建計画が始められ、新たな都市の実在で観光経済の発展が最高潮に達した。
行政


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