リマウ作戦
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^ 遠藤(1996) 74-78頁。ブラッドリー(2001) 151,162頁では「9月11日」
^ 遠藤(1996)74-78頁、ブラッドリー(2001)151頁。ブラッドリー(2001)162頁の引用文中では「西オーストラリア州パース」。
^ ブラッドリー(2001)151-152,162頁、遠藤(1996) 74-78頁。
^ .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯0度07分19秒 東経107度13分18秒 / 北緯0.121966度 東経107.221584度 / 0.121966; 107.221584 (ペジャンタン(Pejantan)島)
^ ブラッドリー(2001)152頁、遠藤(1996) 78-80頁
^ その後、潜水艦「ポーパス」は、11月8日以降にメラパス島に隊員を迎えに来ることを約し、ムスティカ号の元の乗組員を収容してチャップマン少佐の操舵でいったんオーストラリアへ戻り、ライアン中佐らはメラパス島へ戻った(ブラッドリー(2001)152頁、遠藤(1996) 78-80頁)
^ 篠崎(1976)P.197
^ 遠藤(1996) 81頁
^ 北緯1度04分25秒 東経103度49分26秒 / 北緯1.073507度 東経103.823762度 / 1.073507; 103.823762 (カス(Kasu)島)
^ 遠藤(1996) 84-86,145頁
^ 遠藤(1996) 86-87頁。このとき生き残ったマレー人の兵補が11日に事件をブランカン(Belakang)島(北緯1度08分59秒 東経103度53分06秒 / 北緯1.149705度 東経103.884879度 / 1.149705; 103.884879 (ブランカン(Belakang)島))の係官に連絡したが、係官から憲兵隊本部への連絡は2日ほど遅れたとされる(遠藤(1996) 90頁)。
^ 北緯0度49分54秒 東経104度21分34秒 / 北緯0.831541度 東経104.359517度 / 0.831541; 104.359517 (パンキル(Pangkil)島)
^ 北緯0度51分30秒 東経104度23分16秒 / 北緯0.858275度 東経104.387798度 / 0.858275; 104.387798 (ソレ(Soreh)島)
^ 北緯0度46分29秒 東経104度26分00秒 / 北緯0.774824度 東経104.433450度 / 0.774824; 104.433450 (タパイ(Tapai)島)
^ 遠藤(1996) 90-102,146頁。
^ ソレ島の銃撃戦では日本軍の兵士4名が戦死、数名が負傷した(遠藤(1996) 146頁)。
^ 残る隊員のうち2人はメラパス島へ戻り(遠藤(1996) 106-107頁)、1人は行方不明となって後に日本軍に逮捕された(遠藤(1996) 111頁)。
^ 遠藤(1996) 102-106,146-147頁。
^ 北緯0度59分23秒 東経104度49分44秒 / 北緯0.989750度 東経104.828796度 / 0.989750; 104.828796 (マポール(Mapur)島)
^ 北緯1度08分09秒 東経103度49分38秒 / 北緯1.135873度 東経103.827109度 / 1.135873; 103.827109 (ポンポン(Pompong)島)
^ 遠藤(1996) 106-108頁。潜水艦「ポーパス」でオーストラリアに戻っていたチャップマン少佐は、1944年10月16日に「潜水艦「タンタラス」(英語版)で隊員救出のため西オーストラリアのフリーマントル港を出港しメラパス島へ向かったが、隊員と合流できずに同年12月6日に帰港した(ブラッドリー(2001)152頁、遠藤(1996)107-108頁)。タンタラス号は攻撃的巡回も任務としており、「リマウ」隊員との待合せ予定日の11月8日になってもまだ魚雷等が残っていたため、救出の日程を一方的に11月21-22日に延期して攻撃的巡回を続けていた(ブラッドリー(2001)152-153頁、遠藤(1996)107-108頁)。帰港後の調査でチャップマン少佐が予定の救出の場所・日程を守っておらず、隊員の合図を見落とすなどの違反行為があったことが判明したが、隊員が日本軍に逮捕されたことが伝わると、違反行為の問題はうやむやになった(遠藤(1996) 216-218頁)。1964年になって、ある歴史研究家が本人にこの問題を追及したところ、チャップマンは自殺した(遠藤(1996) 216,218頁)。
^ 遠藤(1996) 109-110頁
^ 北緯0度10分37秒 東経104度13分21秒 / 北緯0.177083度 東経104.222593度 / 0.177083; 104.222593 (ボアジャ(Buaja)島)
^ このうち、負傷しながら逃亡していたマーシュ一等兵は12月末に逮捕されたが高熱で意識障害を起こし、翌1945年1月11日にシンガポールの憲兵隊本部の医務室で死亡した(遠藤(1996) 110頁)
^ 南緯0度17分58秒 東経104度26分54秒 / 南緯0.299376度 東経104.448395度 / -0.299376; 104.448395 (セラジャール(Selajar)島)
^ 遠藤(1996) 10-111頁
^ 遠藤(1996) 111,147-148頁
^ ブラッドリー(2001)163頁および篠崎(1976)198頁では、生存者はシンゲップ(英語版)警察署から昭南水上憲兵隊(シンガポールのケッペル波止場にあった(篠崎(1976) 41頁、遠藤(1996) 143頁))に護送された、としており、遠藤(1996)はシトク(Setoko)島(北緯0度56分39秒 東経104度03分44秒 / 北緯0.944138度 東経104.062178度 / 0.944138; 104.062178 (シトク(Setoko)島))に連行されたとしている(148頁)。
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