古代ローマにおいては、キケロ『発想論(英語版)』や『弁論家について(英語版)』[37]、セネカ『倫理書簡集(英語版)』第88書簡[37][注釈 12]、ウァッロの佚書[48][注釈 13]、アウグスティヌス『秩序論(ドイツ語版)』[50]など、様々な文献で[51]、「アルテス・リベラレス」や類似表現が使われた。しかしながら、古代ローマにおいても含まれる学科はまちまちだった[51]。例えばキケロ『弁論家について』第3巻127節では、エリスのヒッピアスの言葉を引く形で、「自由人にふさわしい高尚な学芸」(liberales doctrinae atque ingenuae)として、幾何学・音楽・文学・詩人の薀蓄・自然学・倫理学・政治学を挙げている[52]。またキケロはプラトンと異なり、哲学よりも修辞学を上位のものとしていた[52]。
5世紀から6世紀(古代ローマ末期・中世初期)になると、マルティアヌス・カペッラ、カッシオドルス、ボエティウスら複数の人物が、後の「自由七科」(セプテム・アルテス・リベラレス、septem artes liberales、七自由学芸)に含まれる七科を決定付けた[53]。カペッラは『フィロロギアとメルクリウスの結婚』で、文法学・修辞学・論理学・算術・幾何学・天文学・音楽の七学科を擬人化した。カペッラは上記のウァッロの影響を受けていた[49](ただしウァッロは七科ではなく九科としていた)[48]。カッシオドルスは『綱要』第2巻で、「アルテス・リベラレス」の語源を説明した上で、カペッラを意識しつつ同じ七科をあてた[54][55]。ボエティウスは『三位一体論』などで、カッシオドルスと同様の学芸分類を行った[55]。
8世紀から9世紀(カロリング朝ルネサンス期)になると、カール大帝の学芸振興政策により、自由七科が教育の根幹に位置づけられ[56]、アルクイン『アルス・グラマティカ(文法学)(英語版)』などで自由七科が論じられた[57][要ページ番号]。10世紀には、教皇シルウェステル2世がボエティウスの影響のもと自由七科を扱った[要出典]。