リヒャルト・ワーグナー
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偽名で発表したエッセイ「ドイツ人のパリ受難記」(1841)では「パリでドイツ人であることは総じてきわめて不快である」と書き、ドイツ人は社交界から排除されているのに対して、パリのユダヤ系ドイツ人はドイツ人の国民性を捨て去っており、銀行家はパリでは何でもできる、と書いた[16]。ワーグナーの身近にいたマイアベーアは事実、偽客(サクラ)を動員したり、ジャーナリストを買収するなどしており、ハイネもそうして獲得したマイアベーアの名声に対して「金に糸目をつけずにでっちあげた」と批判していた[16]1842年頃には、ワーグナーはシューマンへの手紙でマイアベーアを「計算ずくのペテン師」と呼ぶようになった[15]

この頃、ハイネから素材を採り『さまよえるオランダ人』(WWV 63)を作成した[21]。ワーグナーはハイネと親しく、ハイネがユダヤ系のルートヴィヒ・ベルネを『ベルネ覚書』で批判すると、ワーグナーはハイネを擁護した[21]

パリでワーグナーが認められることはなかった一方で、『リエンツィ』(WWV 49)は1841年6月に故郷であるザクセン王国・ドレスデンで完成したばかりのゼンパー・オーパー(ドレスデン国立歌劇場)での上演が決定し、1842年4月にワーグナーはパリで認められなかった失意のうちに、『リエンツィ』の初演に立ち会うためにザクセン王国ドレスデンへ戻った[15]
ザクセン宮廷指揮者

ドレスデンでの1842年10月20日の『リエンツィ』初演は大成功に終わり、これによってワーグナーはようやく注目された。『リエンツィ』は流行のマイアベーア様式を踏襲しており、ビューローは「『リエンツィ』はマイアベーアの最高傑作」と呼んだ[22]。この成功によって、ザクセン王国の宮廷楽団であるシュターツカペレ・ドレスデン(ザクセン国立歌劇場管弦楽団)の指揮者の職を打診され、翌年の1843年2月に任命された[15]。1月に『さまよえるオランダ人』が上演されたが、これは『リエンツィ』と違ってそれほどの評判を得られなかった。

1843年の「自伝スケッチ」でワーグナーは、イタリア人は「無節操」で、フランス人は「軽佻浮薄」であり、真面目で誠実なドイツ人と対比させたが、こうした評価にはパリでの不遇が背景にあった[15]

1844年12月には、1826年イギリスロンドン)で客死したウェーバーの遺骨をドレスデンへ移葬する式典の演出を担当した。ウェーバーを尊敬していたワーグナーは、『ウェーバーの「オイリアンテ」のモティーフによる葬送音楽』(WWV 73)とウェーバーを讃える合唱曲『ウェーバーの墓前にて』(WWV 72)を作詞作曲し、さらに追悼演説も行って、多才を発揮した。

当時のワーグナーは、ドレスデン宮廷歌劇場監督で社会主義者のアウグスト・レッケルの影響で、プルードン、フォイエルバッハバクーニンなどアナーキズムや社会主義に感化されており、国家を廃棄して自由協同社会(アソシエーション)を望んでいた[23]

1845年にはオペラ『タンホイザー』(WWV 70)を作曲し上演したが、当初は不評だった。しかし上演し続けるうちに評価は上昇していき、ドレスデンにかぎらず各地で上演されるようになった。夏休暇にはヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの『パルチヴァール』 、ゲオルク・ゴトフリート・ゲルヴィーヌスの『ドイツ人の詩的国民文学の歴史』 を読んだ[24]

1846年、ワーグナーは毎年恒例であった復活祭の直前の日曜日におこなわれる特別演奏会の演目として、ベートーヴェンの『交響曲第9番』の演奏を計画。当時、ベートーヴェンの第9番は演奏されることも少なく、忘れられた曲となっていたため猛反対の声が上がったが、徹底したリハーサルや準備の甲斐あってこの演奏は大成功に終わった。以後、『交響曲第9番』は名曲としての評価を確立する。1848年にオペラ『ローエングリン』(WWV 75)を作曲したが、この時は上演されなかった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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