リヒャルト・ワーグナー
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ワーグナーはマイアベーアを1846年にも尊敬していたが、1849年6月に指名手配を受けたワーグナーはパリでのマイアベーア流行に対して資本主義的音楽産業の兆候とみえ、憎悪するようになった[12]。ワーグナーは友人テーオドーア・ウーリクとマイアベーアの『預言者』を観劇し、「純粋で、高貴で、高慢で、真正で、神的で人間的なものが、すでにそのように直接暖かく、至福の存在において息づいている」と称賛しているが、これは嘲笑ともされ、この時期にワーグナーは「内心軽蔑していたパトロンたちにさえ、馬鹿にされていたのが実は我々だった」とリストに述べている[12]

1850年、ワーグナーが変名で『音楽におけるユダヤ性』を「新音楽時報」に発表し、ユダヤ人は模倣しているだけで芸術を作り出せないし、芸術はユダヤ人によって嗜好品へと堕落したと主張した[21][32]。また、「ユダヤ人は現に支配しているし、金が権力である限り、いつまでも支配し続けるだろう」とも述べた[21]。ワーグナーは1850年以前はユダヤ人の完全解放を目指す運動に与していた[15]。ワーグナーは『音楽におけるユダヤ性』で、マイアベーアを名指しでは攻撃せずに、ユダヤ系作曲家メンデルスゾーン・バルトルディを攻撃し、またユダヤ解放運動は抽象的な思想に動かされてのもので、それは自由主義が民衆の自由を唱えながら民衆と接することを嫌うようなものであり、ユダヤ化された現代芸術の「ユダヤ主義の重圧からの解放」が急務であると論じた[15]。ワーグナーによれば、メンデルスゾーンは最も特殊な才能に恵まれ、繊細かつ多様な教養を有しているが、心を魂をわしづかみにするような作用をもたらさないとし、またバイロイト時代には才能を持っているが力を伸ばすにつれて愚かになっていく猿と評した[33]。ただし、ワーグナーはメンデルスゾーンの『ヘブリディーズ諸島(フィンガルの洞窟)』序曲(1830年)を称賛し、崇高であるとも評価し、1871年には自分が移調ができないことに対してメンデルスゾーンならば手を叩いて喜んだだろうとも述べており、さらにメンデルスゾーン本人よりも、メンデルスゾーン一派が台頭させて、価値を創造せずにただ商品を流通させているだけの「音楽銀行家」を批判した[33]。また、1843年の「パウロ」ドレスデン初演をワーグナーは激賞し、メンデルスゾーンも「さまよえるオランダ人」ベルリン初演を称賛した[33]。メンデルスゾーンは1847年に死去しており、『音楽におけるユダヤ性』はその三年後に発表された[33]。『音楽におけるユダヤ性』を発表して以降、ワーグナーはマイアベーアの陰謀で法外な非難を受けたと述べ、1851年にワーグナーはリストに向けて、以前からユダヤ経済を憎んでいたと述べ[21]1853年にはユダヤ人への罵詈雑言をリストの前で述べるようになっていた[15]カール・タウジヒ

他方で、ワーグナーはユダヤ人奏者を庇護したり、起用することも行った[34]。例えば、『音楽におけるユダヤ性』には一点の疑義もなく、自殺するかワーグナーに師事するかしかないと述べたウクライナのユダヤ人ピアノ奏者ヨーゼフ・ルービンシュタインをワーグナーは庇護し、専属奏者とし[34]、さらにバイロイト新聞への寄稿を求めた[35]。同じくカール・タウジヒもユダヤ人でワーグナーの庇護下にあったし、ワーグナーがローエングリンジークフリート役に好んで起用した歌手で後にプラハ新ドイツ劇場監督になるアンゲロ・ノイマンもユダヤ人であった[34]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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