1882年、舞台神聖祝典劇『パルジファル』(WWV 111)を完成。最後の作品となった本作は、バイロイト祝祭劇場の特殊な音響への配慮が顕著で、作品の性格と合わせて、ワーグナーはバイロイト以外での上演を禁じた。このころ祝祭劇場と彼の楽劇はヨーロッパの知識人の間で一番の関心の的になる。ヘルマン・レーヴィ
1882年夏、ワーグナーの崇拝者であったユダヤ人指揮者ヘルマン・レーヴィはルートヴィヒ2世の命によって、『パルジファル』のバイロイト祝祭劇場初演を指揮した[34][52]。『パルジファル』でワーグナーはインドの仏教やラーマーヤナをモチーフにしたが、「キリスト教世界の外部」の中世スペインとして設定された[45]。宗教と芸術の一致を目標としていたワーグナーは、ユダヤ人のレーヴィをキリスト教に改宗せずに指揮してはならないと言ったが、レーヴィは拒否した[52]。レーヴィはワーグナーの論文「汝自身を知れ」に感銘し、ワーグナーのユダヤとの戦いは崇高な動機からのものであり、低俗なユダヤ人憎悪とは無縁であると考えた[52]。前年の1881年6月には匿名でユダヤ人に指揮させないでほしいという懇願とともに、そのユダヤ人はワーグナーの妻コジマと不義の関係にあるとする手紙がワーグナーのもとに届いた[34]。ワーグナーが手紙をレヴィに見せると、レーヴィは指揮の辞退を申し出たが、ワーグナーは指揮をするよう言った[34]。ワーグナーの娘婿でイギリス人反ユダヤ主義者チェンバレンは終生ワーグナーに忠実であったレーヴィを例外的ユダヤ人として称賛した[34]。
死去バイロイトのヴァーンフリート荘と、裏庭にあるワーグナーとコジマの墓
1883年2月13日、ヴェネツィアにて旅行中、客死。作品でも私生活でも女性による救済を求め続けたワーグナーらしく、最後に書いていた論文は『人間における女性的なるものについて』であり、その執筆中に以前から患っていた心臓発作が起きての死だった。ワーグナーは死ぬ直前に「われわれはすべてをユダヤ人から借り出し、荷鞍を乗せて歩くロバのような存在である」とも述べた[34]。コジマはベッドに横たえられたワーグナーの遺体を抱きかかえて座り、一日中身動きひとつとしなかったという[54]。遺体はバイロイトの自宅であるヴァーンフリート荘の裏庭に埋葬された。
ワーグナーの死はヨーロッパ中に衝撃を与えた。ルートヴィヒ2世はワーグナーの死を知って「恐ろしいことだ」と打ち震えた。訃報を接した際に合唱の練習をしていたブラームスは、ワーグナーに弔意を表して練習を打ち切ったという[55]。離反していたニーチェも悔みの手紙を送り、ワーグナーを痛烈に批判しブラームスを支持したエドゥアルト・ハンスリックもワーグナーの死を悼んだ[56]。アントン・ブルックナーの交響曲第7番の第2楽章は、彼の死の予感の中で書かれ、そのコーダは彼の死に捧げる葬送音楽となっていることはよく知られている。
またヴェルディはこう書いている。私は昨日その訃報を読んだとき、あまりの驚きに立ちすくんだまま、しばらくはものも言えずにいました。我々は偉大な人物を失ったのです!彼の名前は芸術の歴史にもっとも巨大な存在として残ることでしょう! ? ジュゼッペ・ヴェルディ、1883年2月14日付のミラノの楽譜出版社に宛てた手紙[57]