1839年、ロンドンからドーバー海峡を渡り、船上で婦人からパリで成功したユダヤ人作曲家ジャコモ・マイアベーアへの紹介状を書いてもらった[11]。一時ブローニュ=シュル=メールでオペラ『リエンツィ』(WWV 49)を完成させた[11]。
銀行家の息子だったマイアベーアはパリで1824年に『エジプトの十字軍』を成功させ、『悪魔のロベール』(1831年)、サン・バルテルミの虐殺に基づくグランド・オペラ『ユグノー教徒』(1836年)の大ヒットなどで名声を博し、1842年にはベルリン宮廷歌劇場音楽監督に就任した。マイアベーアの『預言者』(1849年)では最初の10回の収入だけで10万フラン、さらに版権で44000フランを獲得したうえに、レジオンドヌール勲章、ザクセン騎士功労章、オーストリア・フランツ・ヨーゼフ騎士団騎士勲章、ヴュルテンベルク上級騎士修道会勲章、エルネスティン家一級指揮勲章、イエナ大学名誉博士号、ベルリン芸術アカデミー顧問などの名誉を獲得した[12]。
1839年9月、マイアベーアはオペラ座支配人への推薦を引き受けてくれたため、ワーグナー夫妻は感激した[13]。しかし、10月には推薦が効き目なく、希望は幻滅へと変わり、マイアベーアへの邪推、そしてパリ楽壇、ユダヤ人を敵視するようになっていった[14]。この頃、ワーグナーは生活費の工面や『リエンツィ』や『さまよえるオランダ人』の上演の庇護をマイアベーアから受けていた[15]。ワーグナーもマイアベーアはグルック、ヘンデル、モーツァルトと同じくドイツ人であり、ドイツの遺産、感情の素朴さ、音楽上の新奇さに対する恥じらい、曇りのない良心を保持しており、フランスとドイツのオペラを美しく統一した作曲家であると称賛した[15][16]。また、マイアベーアは多くのユダヤ人がキリスト教に改宗する時代において、改宗を拒否した唯一の例であった[17]。一方でマイアベーアは聴衆のほとんどは反ユダヤ主義であるとハイネへの手紙で述べている[15]。
マイアベーアの紹介で、ユダヤ人出版商人シュレザンジューから編曲や写譜の仕事を周旋してもらい、また雑誌への寄稿を求められて、小説『ベートーヴェン巡礼』を連載した[18]。パリではドイツ人ゴットフリート・アンデルス、ザームエル・レールス、画家キーツと親交を結び、プルードンやフォイエルバッハの思想を知った[19]。
1840年2月の手紙でワーグナーは、マイアベーアを民族の偏見をなくし、言語による境界を取り払う音楽として称賛している[12]。