リヒャルト・ワーグナー
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1831年の復活祭の折りにライプツィヒを訪れたベルンハルト・ショットに楽譜を手渡すとともに再度依頼するも、編曲版には不備も多く出版には至らなかった[3][* 2]。当初は絶対音楽の作曲家になろうと交響曲にも関心を示したが、すぐに放棄した。

1831年、18歳の時にライプツィヒ大学に入学。哲学や音楽を学んだが数年後に中退する。また、聖トーマス教会カントルトーマスカントル)だったテオドール・ヴァインリヒに対位法作曲の指導を受けた[4]
青年期最初の妻ミンナ・プラーナー

1832年に『交響曲 ハ長調』(WWV 29)を完成させたと時を同じくして、最初のオペラ『婚礼』(WWV 31)を作曲した。1833年ヴュルツブルク市立歌劇場の合唱指揮者となった。その後指揮者に飽き足らず、オペラ作曲家を目指したが芽が出ず、貧困に苦しんだ。

青年ドイツ派のハインリヒ・ラウベと知り合い、1834年、最初の論文『ドイツのオペラ』を匿名でラウベが編集する流行界新聞に発表した[5]。この論文では歌唱美を持つイタリア音楽や、イタリアオペラの欠点を補ったグルックなどのフランス音楽に比して、ドイツ音楽は学識的(gelehrt)であり、民衆の声や真実の生活からかけ離れており、「ドイツなど世界のひとかけらにすぎない」と感じており、若いワーグナーは青年ドイツ派の影響を受けて、新しい音楽はイタリア的でもフランス的でもドイツ的でもないところから生まれると論じていた[6]

1834年マクデブルクのベートマン劇団の指揮者となった際、女優のミンナ・プラーナーと出会い、恋仲となる。

1836年に『恋愛禁制』(WWV 38)を作曲したがベートマン劇団が解散。ミンナがケーニヒスベルクの劇団と契約したため彼女についてケーニヒスベルクへ向かい、同地で結婚した[7]。しかし、二人の関係は不安定で、ワーグナーは独占欲が強く、他方のミンナは幾度も恋人と駆け落ちし、1837年5月にミンナは姿を消した[7]1837年にはドレスデン、さらに帝政ロシアリガ(現在のラトビア)と、劇場指揮者をしながら転々とした。ドレスデンでエドワード・ブルワー=リットンの小説『ローマ最後の護民官リエンツィ』を翻訳で読み、台本スケッチにした[8]。1839年3月、リガの劇場を解雇された[9]。7月、債権者から逃れたワーグナー夫妻はロンドンへ密航した[10]。この時に暴風に襲われ、『さまよえるオランダ人』(WWV 63)の原型となった[10]
パリ時代 (1839-1842)ワーグナーを庇護したユダヤ人作曲家マイアベーア

1839年、ロンドンからドーバー海峡を渡り、船上で婦人からパリで成功したユダヤ人作曲家ジャコモ・マイアベーアへの紹介状を書いてもらった[11]。一時ブローニュ=シュル=メールでオペラ『リエンツィ』(WWV 49)を完成させた[11]

銀行家の息子だったマイアベーアはパリで1824年に『エジプトの十字軍』を成功させ、『悪魔のロベール』(1831年)、サン・バルテルミの虐殺に基づくグランド・オペラユグノー教徒』(1836年)の大ヒットなどで名声を博し、1842年にはベルリン宮廷歌劇場音楽監督に就任した。


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