リヒャルト・シュトラウス
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なおパウリーネとの家庭生活に想を得た作品として、歌劇『インテルメッツォ』と『家庭交響曲』があり、『影のない女』の染物師の妻もパウリーネがモデルとされる。

1898年、最後の交響詩『英雄の生涯』(Ein Heldenleben)を書き上げたシュトラウスは、関心をオペラに向けるようになった。このジャンルでの最初の試みである『グントラム』(1894年作曲)は主に自作の稚拙な台本のせいで酷評され失敗に終った。続く『火の危機』(1901年作曲)もミュンヘン方言のオペラということもあり、一定の評価を収めたにとどまった。1903年には以前から成功していた管弦楽曲の分野に戻り『家庭交響曲』を完成させる。しかし、1905年オスカー・ワイルドの戯曲のドイツ語訳に作曲した『サロメ』(Salome)を初演すると、空前の反響を呼んだ。ただし、聖書を題材にしていることや、エロティックな内容が反社会的とされ、ウィーンを始め上演禁止になったところも多い。ニューヨークメトロポリタン歌劇場がこの作品を上演した時などは、終演後の聴衆の怒号の余りの激しさにたった1回で公演中止になったほどであった。マーラーら、当時の作曲家達はその前衛的な内容に深く共感し、シュトラウスはオペラ作曲家としての輝かしい第一歩を踏み出した。シュトラウスの次のオペラは1908年に完成した『エレクトラ』 (Elektra) で、前衛的手法をさらに徹底的に推し進めた。多調、不協和音の躊躇なき使用などを行い、調性音楽の限界を超えて無調音楽の一歩手前までに迫った。この作品はシュトラウスが詩人フーゴ・フォン・ホーフマンスタールと協力した最初のオペラでもある。このコンビはホーフマンスタールが死去するまで、音楽史上稀に見る実り豊かな共作を続けていくことになる。

そのホフマンスタールとの共同作業第2作目になる『ばらの騎士』(Der Rosenkavalier, 1910年)で、大成功をおさめ作曲家としての地歩を固める。シュトラウスは『ばらの騎士』を境に前衛的手法の追求を控え、当時興隆しつつあった新ウィーン楽派新古典主義音楽などとは一線を画して後期ロマン主義音楽の様式に留まり続けたため、結果的に穏健派の立場に立つこととなる。1915年に『アルプス交響曲』を完成させた後も、最後のオペラ作品となる『カプリッチョ』(1941年)に至るまで精力的にオペラを作曲した。

後期の作品は先進派からの評価は低いが、今日では時代の先端であった前期の作品を中心に多く演奏されている。最後の10年間は創作ペースが落ちたものの『カプリッチョ』『4つの最後の歌』(1948年)などの重要な作品があり、『ドン・ファン』から数えると、代表作を生み出した期間が60年におよんでいる。管弦楽作品とオペラの両方に多くの代表作を残したという点では、モーツァルト以来の存在とする見解もある。
ナチスへの協力ヨーゼフ・ゲッベルスとシュトラウス

1930年代以降のナチス政権下のドイツにおいて、シュトラウスと政治との関わりをめぐっては今日に至るも多くの議論がある。一方は、シュトラウスが第三帝国の帝国音楽院総裁の地位についていたこと、ナチ当局の要請に応じて音楽活動を行った事実を指摘し、この時代のシュトラウスを親ナチスの作曲家として非難する見解である[注釈 1]。もう一方は、シュトラウスの息子フランツ・シュトラウス(1897年 ? 1980年)の妻がユダヤ人であり、その結果シュトラウスの孫もユダヤ人の血統ということになるために、自分の家族を守るためにナチスと良好な関係を維持せねばならなかった事情を考慮して擁護する見解である。事実、シュトラウスはオペラ『無口な女』の初演のポスターから、ユダヤ人台本作家シュテファン・ツヴァイクの名前を外すことを拒否するという危険を犯し、自身の公的な地位を使って、ユダヤ人の友人や同僚たちを救おうとしたとする見解もある。さらにはシュトラウスもナチスに利用された被害者だったとする意見もある。

シュトラウスは第二次世界大戦終結後、ナチスに協力したかどで連合国の非ナチ化裁判にかけられたが、最終的に無罪となった。なお、1940年(昭和15年、皇紀2600年)にはナチスの求めに応じて、日独伊防共協定を結んだ日本のために「日本の皇紀二千六百年に寄せる祝典曲」を書いている(当該項目を参照)。
終戦後とその死オペラの台本を読むシュトラウス(1945年)

終戦後、シュトラウスは裁判の被告となったこともあり、表だった活動は控えていたが、周囲からのすすめもあり、ロンドン公演を実施している。イギリス人にとってもはやシュトラウスは“過去の人”であったが、自ら指揮棒を持ち健在ぶりをアピールしている。このときの演目は『家庭交響曲』(シュトラウス本人は『アルプス交響曲』を希望したが、当日に別の演奏会があったためにオーケストラ人員が確保できなかった)。なおこの時、ロンドンの行く先々で「あなたがあの『美しく青きドナウ』の作曲者ですか?」と、尋ねられたという逸話が残されている(英国は非ドイツ語圏で最大のヨハン・シュトラウス協会を持つウィンナワルツ愛好国である)。

1948年、時間をもてあましていたシュトラウスは家族に薦められて最後の作品のひとつである『4つの最後の歌』を作曲した(出版はシュトラウスの死後。実際にはその後もいくつかの歌曲が書かれた)。シュトラウスは生涯を通じて数多くの歌曲を書いたが、これは恐らくシュトラウスの歌曲の中でもっとも有名なものの1つであろう。すでにシュトックハウゼンブーレーズノーノケージといった前衛作曲家達が登場し始めていた時代にあって、シュトラウスの作品はあまりにも古風で時代遅れであった。シュトラウス自身も戦後すぐの放送インタビューで「私はもう過去の作曲家であり、私が今まで長生きしていることは偶然に過ぎない」と語った。


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