リヒテンシュタイン
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なお、日本国外務省は「公爵」と表記しており[8]、リヒテンシュタイン公と表記する際の「公」は君主の意味である。

なお、英語においては「prince(プリンス)」とされ、国家体制は「Principality」と訳される[9]。「Principality」は日本語において通例「公国」と訳される。英語における「プリンス」は広義的には多義的であり、公爵位のみを指すものではなく王侯貴族である領主を全般的に指す言葉である。リヒテンシュタイン家の当主の親族(男子)の称号は「Prinz」であり、「プリンス」と同義であるが、これは日本語においては「公子」と訳されるのが通例である。
歴史詳細は「リヒテンシュタインの歴史」を参照

リヒテンシュタイン家は神聖ローマ帝国ハプスブルク帝国における大貴族の家系であり、オーストリアモラビアシレジアなどに大きな領土を持っていた。現在のリヒテンシュタインの領域にあたるシェレンベルク=ファドゥーツはその中の一部に過ぎず、歴代君主はウィーンに居住していた。1719年、シェレンベルク=ファドゥーツは領邦国家としてのリヒテンシュタイン公国として認められた[10]

1806年神聖ローマ帝国が解体されると主権独立国家となり、翌年にライン同盟に参加した。地理的にもオーストリア帝国に近く、普墺戦争後もオーストリア側に付き、ドイツ帝国にも加わらなかった。1867年には永世中立国となり、第一次世界大戦では中立を守ったが、連合国側からは不信感を抱かれていた[11]。このため国際連盟には加盟できなかったが、この際にチェコスロバキアを除く国からは国家としての承認を受けている[12]

1938年ナチス・ドイツオーストリアを併合した(アンシュルス)。老齢で、ユダヤ人女性を妻としていたフランツ1世フランツ・ヨーゼフ2世に譲位し、フランツ・ヨーゼフ2世はファドゥーツに移住した。当時、リヒテンシュタインでもナチズムの動きは高まっており、1939年3月にはリヒテンシュタインのドイツ国民運動(英語版)の一部がドイツとの合邦を宣言して逮捕される動きになった。このため1939年4月4日の総選挙は主要政党の進歩市民党(英語版)と祖国連合(英語版)にほぼ同数の議席を割り当てることとし、投票は行われなかった(1939年リヒテンシュタイン総選挙(英語版))。第二次世界大戦では中立を保ち、戦禍から逃れた。しかし戦前戦後を通じてチェコスロバキア・ポーランド内にあったリヒテンシュタイン家の領地は没収された。1990年国際連合加盟以降は国際機関への参加を積極的に行うようになっている。
年表

1608年 カール1世が世襲君主であるリヒテンシュタイン侯に叙任される。リヒテンシュタイン侯爵家の始まり[10]

1623年 カール1世の弟のマクシミリアンとグンダカルがそれぞれ帝国諸侯となる[13]

1699年 ヨハン・アダム・アンドレアスがシェレンベルク男爵領(ドイツ語版)を購入。

1712年 ヨハン・アダム・アンドレアスがファドゥーツ伯爵領(ドイツ語版)を購入。

1719年 神聖ローマ皇帝カール6世は、リヒテンシュタイン家が買収したファドゥーツ伯爵領とシェレンベルク男爵領とを併せてリヒテンシュタイン侯領とすることを認可(リヒテンシュタインの始まり)[14][10]

1806年 神聖ローマ帝国の崩壊によって独立国となり、翌年にライン同盟に参加する。

1815年 ドイツ連邦に加入。

1852年 オーストリア帝国との関税同盟を締結。

1866年 ドイツ連邦解体

1867年 永世中立国となる。

1868年 軍隊を廃止。

1919年 オーストリアとの関税同盟を解消。

9月14日-スイスのベルンに最初の在外公館を設置[15]


1921年 憲法制定。スイス・フランを通貨とする。

1923年 スイスと関税同盟を結ぶ。

1938年 ナチス・ドイツオーストリアを併合(アンシュルス)。オーストリアに在住していたフランツ・ヨーゼフ2世はファドゥーツに移住する。

1984年6月 女性参政権を認める。

1990年 国際連合に加盟する[11]

1991年 欧州自由貿易連合(EFTA)に加盟する[11]

1995年 欧州経済領域(EEA)、世界貿易機関(WTO)に加盟する[11]

2003年 憲法を改正[11]

2011年 シェンゲン協定に加盟する。

政治詳細は「リヒテンシュタインの政治(英語版、フランス語版)」を参照

元首はリヒテンシュタイン侯で、リヒテンシュタイン家の当主による男子世襲制である。欧州の君主制国家の元首が象徴・儀礼的存在であるのに対して、侯は立法権・外交権・議会の解散権・法案の拒否権など強い権限を有している[16]。2003年には君主の権限はさらに強化され、2012年に行われた国民投票でも、侯の拒否権保持を76%の国民が支持している[16]。また、侯の費用は、国ではなくリヒテンシュタイン家の私有財産から拠出されており、さらに別途で多大な寄付も行っている[16]。このように君主が政治の実権を持つものの、国民の自由と権利、法の支配、議会政治などの民主主義制度が充分に整備・保証されているため、立憲君主制と見做されている。現在の君主ハンス・アダム2世侯は、2004年に長男のアロイスを摂政に指名して統治権を譲り、自らは名目上の元首としての地位のみを有している。「リヒテンシュタイン公国政府」および「リヒテンシュタインの憲法(ドイツ語版、フランス語版、英語版)」も参照

議会一院制で、「Landtag(国会)」と称する。


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